栗本 薫 真夜中の天使6 [#表紙(表紙6.jpg、横180×縦261)]     25 「何ですって?」  滝はふいに椅子を押しのけて立ちあがった。 「もう一度云って下さい」 「何度でも云うさ」  デュークは目を爛々と光らせながら怒鳴った。いつも血色のいい肥った顔が、いまは赤鬼のようにけわしくなっている。 「結城修二が、ジョニーを独立させようとしてるのを、知ってるかって云うんだ」 「独立《ヽヽ》ですって?」  滝は笑おうとしてちょっと口もとをひきつらせた。 「からかわないで下さいよ」 「滝チャン、あんたらしくないよ」  滝はサングラスをむしりとった。信じられないように、社長の恐ろしい顔をねめつける。尾崎プロダクションの社長室は、およそ五分近くも、息づかいがひびきわたるような沈黙につつまれていた。  ようやく滝は気を取りなおした。サングラスをかけなおし、椅子をひき寄せ、落着いた声を出そうと苦心しながら云う。 「たしかなんでしょうな?」 「たしかも何も」  デューク・尾崎の機嫌は最悪だった。 「驚いたね、|あんた《ヽヽヽ》が何ひとつ知らんとはね。あやうくこっちは全部手の内を読まれちまうところだ。その前にノムさんがきいてきたんだよ、ジョニー独立って噂があるが一体ほんとうなの? とね。何を夢みたいなって云ってたら、ついきのうさ。結城修二ご本人がご出馬ときた。あんたのいまいるその椅子でだぜ、滝チャン」 「まっこうからその話を持ちだしたんですかね」 「まっこうもいいところさ。デューク、ジョニーを独立さす気はないの? って、例のおだやかな笑い方しながら云うんだぜ。あたしゃ、あやうくその場で卒倒するところだった」 「──どこかのプロが糸ひいてるってわけですか」 「そこら辺もわからんのさ。おれとしちゃ、どうもそうじゃない気もするんだが。というのがさ──彼、こう云うわけよ。もうジョニーはトップ・スターだ。お宅みたいな格式のある会社組織の中に入っていちゃ、誰が先輩だの、ギャラの格だのって思うようにジョニーひとりを売り出せない。いまでも年くってて決定打のないって連中からはずいぶん敵視されてるそうじゃないの、どうだね、ここらでひとつ、今西良音楽事務所って形でジョニーを独立さしちゃったら──もちろん尾崎プロの一部門、または系列会社って感じで、ただジョニーがつまらん格式や習慣に縛られずに仕事できるように──まったく、あの人は、口のうまい人だな、あんたといい勝負だよ。いろいろと批判もあるし、ジョニーっていうスターは、とにかくこれまでいなかったようなスーパースターに育ちつつあるんだから、これまでの先例がブレーキになっちゃいけないと思うがって云うんだねえ」 「そして、その事務所とやらを、自分で裁量してやろうって、わけですかね。なかなか、わるくない、目のつけどころじゃないですか」  滝はひきつったような笑い声を立てた。 「いったい、それで先生の魂胆は何なんです」 「わかるわけがないだろおれに」  デュークはすごい顔をした。 「だからあんたなら何か知ってるだろうと思って呼んだんじゃないか。彼は突然何の準備もなしにそういうことを口に出す人間じゃない。当然、こっちとしちゃ、何かあるなとカンぐるさ。何とか云いくるめて独立さしといて、子会社の、うちの一部門にすぎないのと云っていて、いきなりマカベさんの資本が入ってるなんてことになるんじゃないかとかさ」 「そんな人とも思えませんがね」 「わかるもんか。彼はあれで大変なやり手だからね。高木マヤを売りこんだ手ぎわ、白崎裕を海外《あつち》のプロモーターに送りこんだやりかた、鮮かなもんじゃないの。それに云ってみりゃ、彼は興行師じゃない、作曲家としちゃ超一流だがこっちの畑じゃまあトウシロだ。だからこそ、予測がつかねえのさ、何たくらんでそんなことを云いだすんだか」 「そりゃ、そうでしょうな。仲間うちなら、どこが糸をひいてるか、どんな含みがあるか、まあすじみちなり糸口ってものがありますからね」 「まあその場はうかがっときますかなとお帰りいただいたわけだよ。だいぶたまげさせられたからね、ま、背後の動機って奴を洗ってみよう、あんたなら何か知ってると思ってさ。そしたら、けさだよ──」  デュークは唇をひん曲げて、吐きすてた。 「なんと関口の御大からひとことあるじゃないの。考慮してみてくれたかねだとさ」 「何ですって?」  今度は滝は顔色を変えた。 「先生もう御大に食いこんでるってんですか!」 「だからきのう今日の仕事じゃないってのさ」 「そんな、ばかな!」 「まったく、そんなばかな、さ。御大がご出馬してくるってことは、組長にも話がとおってるってことだぜ」 「冗談じゃありませんよ」  滝はデュークのデスクを平手で叩いた。 「社長とあたしをつんぼ桟敷で、組長をひっぱりこんでご無理ご尤もに話をとおそうってんですか。そんな仁義ってないでしょう」 「そこがしろうと衆の怖いところだよ。まして金と名と毛並のありあまる|しろと《ヽヽヽ》さんだよ」  デュークは眉を寄せた。 「あの先生のおやじが何者だか、忘れたかね。三島コンツェルンの大立物だ。御曹子、かねがねおやじはおやじだ、僕とは関係ないのときれいなこと云ったって、ここ一番となりゃ、そりゃ、使えるコネは使うだろうさ。芸能界なんざ、単なる寄生虫のあつまりだ。どこかの財界巨頭が耳打ちして、どこかの大臣か代議士先生が電話一本かけりゃ、われわれは吹っとぶだけさ」 「ご大層な話だ、たいした話ですな」  滝は歪んだ笑いをうかべた。 「それじゃわれわれは四面楚歌ですか」 「さよう、そういうことだな。関口の御大に立川主水組長がよしわかったと云ったことに、おれが、ましてあんたが逆らえるかね」 「で、独立さすんですか」 「そこで、あんたに、御曹子と会って欲しいのさ」  デュークは吐息をついて手を組み合わせた。 「先生の肚をさぐりにね。万一どっかよそが糸ひいてるなら、こりゃ、こっちは組長にだってケツまくれるよ。ジョニーがいま、月何千万稼がしてくれてるかご存知かってね。主水の爺さんだって本音は金だ。欺されてたとわかりゃ、こっちのもんだよ。またそうでなくて、仮に、一から十まで先生の云うとおり、裏の事情も背後の黒幕もねえとしてみろ。こりゃ別に我々が文句をつけるスジはないよ、まさしくジョニーの発展のためだ」 「マカベあたりの手さきになるほど、汚い人とも思えませんが、そこまで間の抜けた善意の人とも、ちと、思えませんな」  滝は呟いた。 「これは、もしかすると──」 「心当りがあるかね」 「まあ、たしかめてみてからってことにしましょう」  滝はけわしい顔で云ったが、ふと気づいたようにデュークを見た。 「デューク」 「ああ?」 「良は──」  滝はためらい、それから思いきって云った。 「良はそのことを承知なのかな」 「そりゃ、あんたの役目だよ」  いっしょに住んでまでいるくせに、という顔をデュークはした。滝のうかつを責める顔である。 「わかりましたよ。──私の考えじゃ、私の知らないってこと自体が、これが先生の腹ん中のことだって証明だと思いますがね。いや、何とも云えませんがね……良って奴は、小ずるくってたちはわるいが、妙に正直なところがあって、すぐばれる嘘ばかりつくんですな。もし良がはじめから承知の上なら、私にどうしたって、ようすがちがって見えると思いますよ」 「──何も、思い当るふしはなかったわけ」 「はっきり云って、まったく。──先生がこないだアメリカへ行ってきてから、ちょっと喧嘩でもしたらしいようだったが、そのあとじゃ、前よりももっと先生の方がぞっこんになってきたようで、良の奴も相変らずだし──仕事もちゃんとしてたし……」  気がつかなくて当り前だ、という云い方を滝はした。責任を押しつけられては困る。 「先生どこからそんな気を起こしたんだろうな」  デュークは溜息をついた。 「決算期で忙しくてたださえ往生してるのに、まったくかなわんよ、あとからあとから、頭のいたいことばかり起こってくる」 「とにかく先生の真意をさぐり出してみますよ」  滝はきびしく云った。 「場合によっちゃ──私の判断で処置をとりますよ。かまいませんな」 「かまわんよ。大体、云ってみりゃジョニーは滝チャンのものなんだからね。あんたの判断は信じていいと、いつもおれは思ってるからね」  デュークは面白くもなさそうに笑い声を立てた。 「ジョニーのことなら、一から十まで、とにかくあんたに任せときさえすりゃいいもんだと思ってたよ」  滝は肩をすくめて、答えなかった。おれだってそうだ、と怒鳴りつけるわけにもいかない。  結城は、滝からの電話を、いまや遅しと待っていたらしかった。 「こみいった話になりそうだからな──僕はちょっと、仕事があるから、夜になるが、『ムラン』を知ってるかね」 「はあ、行ったことがあります」 「じゃ、九時すぎで──かまわんね」 「九時すぎに『ムラン』でお待ちしております」 『ムラン』は結城の行きつけのレストラン兼クラブで、品のいい、密談にうってつけの店だった。そこを選んだのも深慮遠謀があるのだろうか、と滝は三十分も早く来てしまって、苛々と煙草をふかしながら気をまわした。何回か良と来ているので、顔見知りのウエイターが挨拶に来た。 「きょうは今西さんご一緒じゃないんですか」 「ちょっとね。おとなしく、家に帰ってるよ」 「こんどのやつもいいですよねえ。グッと来ますよ。あれ結城先生でしょう」 「ああ」 「結城先生の曲って何となくちょっときいただけでもすぐわかりますよね。ほかのひととちがうみたい。何てのかな、すごーくドラマチックで、洗練されてて──何てんだろうな。ジャズかロックも入ってるんだろうけど……とにかく、グッと来ますよ」 「そうだね」 「それに──やっぱ、すごいお似合ですよねえ、ジョニーと。おとといも見えたんですけど、こうすっと肩抱いてね、ジョニーのコートとってやって、いかにもってあれだけど、ええ、フリの客がね、女の三人連れみたいなのがいたんですよ。素敵ねえーってしみじみ溜息ついてますもん。何か、そば寄るのもはずかしいワなんてね。いやあ、やっぱりちょっと人種がちがうって感じ」 「だろうね」  滝は煙草をひねり消して、チェーン・スモーキングした。 「たしかに、我々とは、人種がちがうのさ、ふたりとも。──ちがいすぎて、我々凡人どもは、手も足も出やしないよ、お二人さんのやることにはね」 「あれっ、何かあったんですか」 「いや──どうして」 「何か、きょうの滝さんびりびりしてるって感じ」 「そんなことはないさ」 「そうかなあ──でも」 「お代りを頼むよ。それと、ハイライトも頼む」 「はいはい、同じやつね」  空になったグラスを取りあげたウエイターが、入口の方を見た。 「おや、結城先生だ。噂をすればってほんとだな」 「ご登場か、プリンスの」  滝はゆっくり立ちあがって、合図し、そして鷹揚に微笑をうかべて結城が近づいてくるのを見守った。結城は、ペンシル・ストライプのスーツをあっさり着ているだけだったが、ひどく水際立って美しく見えた。いつでも彼に会うとき感じる気遅れが滝の中でうごめき出そうとしたが、滝はぐいとそれをおさえた。開戦だぞ、と彼は自分に云いきかせた。 「まったく、先生を見てると、美男子っているもんだと思いますよね」  思わず見とれて足をとめていたウエイターが囁く。結城はウエイターに鷹揚に笑いかけ、酒を頼んで追いはらった。 『ムラン』は宵までレストランをしていて、それから高級クラブにかわる。テーブル・クロースをかえて、照明を落した店の中に、ピアノソロのゆるい旋律が流れ出していた。マル・ウォルドロンだ。滝は我にもあらず心が吸いこまれていくように感じた。 「あなたは、好きだったっけね、こいつは」 「『オール・アローン』ですね。私は、この人に弱くてね。『レフト・アローン』ときたらまるきりべた惚れで」 「あれはそりゃ、歴史に残るさ」  二人はゆっくりとあたりさわりのないことばをかわしあったが、長くはそうしていなかった。場合によっては滝もずいぶんとねばっこい進め方ができる人間だが、かけひきの余裕も持ちきれぬ、というのがほんとうのところだったのだ。 「何ですか先日は社長とお会いになられたそうで」 「ああ」 「いろいろとご心配いただきましたそうで」 「いや、いや」  結城はあいまいに笑って手をふった。運ばれた酒に口をつけながら、底光りのする目で滝を見た。 「驚いたろうね、きっと、デュークもあなたも」 「正直云って、そうです」 「さぞかし、いったいあいつ何をたくらんで、どこからそんな音《ね》をひっぱり出してきたんだと思ったろうね」 「実はまだ、あまりよくは伺っておりませんのです」  滝は嘘をついた。 「こういうお話にあまり人が仲に入るのはまちがいのもとですから、ひとつ、先生に直接お伺いした方がよかろうと存じましたもので。何ですか、良の奴に、独立して業務を扱う事務所を作ったらというようなご意向とだけ伺いましたが」 「用心しているね、あなた」  結城は低い声で笑った。 「そう警戒しなくったって、僕にはあなたやデュークの心配するような下心はないよ。あなた、マカベプロのこととか、|てい《ヽヽ》よく良をかっさらわれるんじゃないかとか、心配しているんだろう。いや、いや、隠さなくったっていいさ。今日は僕も、歯に衣着せずにぶちまけるつもりで来たからね。さよう僕だってこんなことを云い出すからには、下心はある。ありますよ──しかし、そりゃ、尾崎プロに迷惑をかけるようなものじゃない。それは、誓ってもいい、僕の名誉にかけて、あなたの考えるような背後関係みたいなものはないよ」  滝は、では──? と訊ねるように黙って首をかしげた。結城はひどくやさしい、あの魅力的な笑顔になった。静かにことばを継いだ。 「僕がこんなことを云い出した目的は、ただひとつさ。滝さん──あなたを、追い出したいだけだよ」 「実は、そんな気もしておりましたよ」  滝は薄色のサングラスの奥で目もとをほころばせて云った。 「先生は最近どうやら私がお目障りのようでしたからな」 「目障りもへったくれもない。僕とあなたは敵どうしだ、いつかは、どちらかから、真珠湾攻撃と出ることは、お互いわかっていたさ」 「それは、そうです。しかしそれにまさか組長なんぞをひっぱり出されるとは思いませんでしたね」 「僕は組長のことなぞ知らんな。それにひとつこちらが遅れをとっていれば、関口先生になにがしつつんで味方につけるのはあなたの方だったはずだ」 「ご尤もです。わかりましたよ、私が抜けてたんです」  滝はくすくす笑った。 「私も、ひとさまのやりかたをうんぬんできるような身分でもありませんしね。それはもう申しませんが」  かれらは冗談をかわしている仲のいい友人どうしのように笑いを含んだ目を見かわした。それから滝は新しい煙草に火をつけて楽なようにすわりなおした。 「何がお望みです、先生」 「僕の望みはもう云ったよ。あなたが良から手をひくことだ」 「まさか、私がそれじゃと手をひくとお思いなわけでもありますまい」 「そう──わかってるさ、あなたのことは」  結城は肩をすくめた。 「だから、あなたのやりかたを参考にさせて貰った。どんなことをしても、良は、奪《と》るよ」 「奪って、どうなさるおつもりです? 先生があれのマネージをなさるわけにも参りますまい」 「そりゃ、ね。だから僕はいたって穏当なやりかたで事を運ぼうとしているんだがな。僕の目的がただあなたを追い出すだけで、ほんとうは良を独立させようがさせまいがどうでもいいんだとわかってしまったら、あなたの立場ってものがないだろう。いまなら、デューク社長も無視されたと思って僕に腹を立ててる、つまりはあなたと利害が一致してるが、もし僕の目的を知り、僕がどんな手段ででも、やりとおすつもりだと知れば、最終的にはあなたを切る方につくさ。彼だって、目さきはきくからねえ。まして、要するに僕はあなたを抹殺しようというんじゃあない、単に、良からはなしたいだけだ。彼には、異存はないだろう──だがそれじゃ、あなたの立場がない。あなたが事をとりまとめるというかたちで身をひけば、どこにも傷がつかない。  良はもうあなたがいなくてもやってゆけるよ。あれだけのスターには、もう自然の勢いというものがついている。あなたのようにあまりに厳密なイメージにしたがってある路線に執着する、しかも一介のマネージャーすなわち雑務屋に徹するには、名も、自負も、実績もありすぎ、頭も切れすぎるひとがついているのはかえって良にはこれからマイナスになる。  僕の考えでは、一種のプロジェクト・チームというかたちで良のためにマネージメントに専念する若手をまとめてその上に杉田君なり渡辺君をおいてやってゆく方がこれからのジョニーの発展のためだと思うよ。いまが潮時だ──あなたもいまなら、何も心配しなくていい、滝俊介という名に傷もつかない。それに──僕は正直云ってあなたの敵だが、だからといって公平にふるまわないつもりはない。あなたがマネージ業務をやめてもとのプロデューサーに戻ると云ってくれれば、それなりに最大の便宜ははかる。なんなら、あなたの再出発第一号の仕事には僕の持ち駒から有望株を出してあげてもいい。いい子がいるんだよ──ロック喫茶で歌ってる冴えんグループのリードヴォーカルだが、かねてから伸びるぞと見こんでた。  何なら、異例のことだが僕が曲を書いてやってもいい。こう云っちゃ何だが、僕が書けば、そのタレントは約束されたようなものだ。それより滝さん──それとも、良は尾崎プロ内に今西良事務所という部門をおくって形にして、あなたが独立したらどうかね。良に専属になる前にはずいぶん、あなたあたりそろそろ独立して──いわばノレン分けして貰ってもいいんだと云われてたじゃないの。あなたならやっていけるだろうし──それだけの人だ。僕はどちらでもかまわん、要は良をあなたから奪いたい。どっちにせよ、どういう形にせよ、あなたがあれから手をひいてくれればそれだけのことはするつもりでいるってことは、云っておくよ。よく考えてほしいね、あまり長くは待たないが、──僕はこれまで、これと思ったことは必ずやりとげてきた。あなたもそうだ、それは認めるよ。だが今度は──僕が勝つ」  滝は黙ってうなずきながらきいていたが、ここで顔をあげて、穏やかに結城を見た。(そうですかね?)と控え目に疑問をほのめかす目である。結城は苛立ったような身ぶりをした。 「僕を信じないんだね」 「先生のお言葉をうかがっていると、例の矛盾という古い話を思い出しますな。ある男が矛と盾を売っていて、この矛に破れない盾はないといい、この盾がふせげない矛はないと云ったら、見ていたものがじゃあその矛とその盾をぶつけたらどうなるんだと云ったという話ですな。私だって勝つつもりですよ。だがまあまずそんなことはあとにしましょう。いまはそれより先生のおっしゃることをうかがいたいですよ。どうしてです、先生──こうお訊ねするのが順序でしょうね。たしかにこれまで先生と私はいろいろと意見のちがうことがありましたし、いつかは、とも思っていましたが──いま、そう云い出されたのには、いずれ理由がおありでしょう」  答える前に結城は一休みして、酒の替りを取り寄せ、ちょっと別のことを思ったように滝の穏和な風貌をしげしげと眺めた。 「──惜しいね、滝さん」  低く呟く。滝は眉をあげてみせた。結城はウィスキーを一口飲んだ。 「まったく惜しいと思う。僕はあなたにいろいろな点で何というか──感服しているんだよ。あなたはほんとうの意味で理性のある人だ。僕はいろいろと気に入っているところがあるが、わけてもあなたのその不撓不屈のところと、決してうろたえないところが好きだ。僕はばかと不覚者とうるさい人間には我慢がならない。あなたはそれのどれでもない──もしあなたがそれで僕のような考え方さえしてくれれば──わが党の士であってくれさえすれば、僕だってあなたを敵にしたくはないんだが。あなたを敵にすればどうしたって一丁場や二丁場で片付くことじゃなくなるからね。僕は泥仕合は好かん。向いていないとは云わん、いくらでもやってみせる、最終的に勝つまでやりとげる心構えもあるが、体質的に好かない。ところがあなたは泥仕合を楽しむ人だからね」 「そうですよ。私はそうです。で?」 「だからなるべくなら僕は泥仕合に持ちこみたくはない。僕は生来そっけないたちで、あなたのようにしつこくはない。だから、何か提案しようというときには、必ず相手が断りきれないような好条件と、その裏の最終手段と、ふたつ用意しておくことにしてる」 「それを、見せていただきたいですね。いまのところ私は徒手空拳の上に目隠しされてるようなもんです。私は何にでも、早いところぶつかってから、じっくり考えて攻略なり、防禦なり、策をたてたいんですよ」 「尤もな話だね。実に尤もだ」  結城は笑った。 「僕の条件の方はわかってくれたと思う。僕としては、いやなことを云い出す前にあなたに承知してほしい。そうすれば、まだ、我々はなかなか気のあったどうしでいられる。おかしなことだね、僕とあなたはいわば宿敵どうしだし、生き方、信条、考え方、とにかく一から十まで対岸の人間なのだが、僕はあなたをその辺のつまらん善人だの、うるさいうろたえ者にくらべてずっと気に入っているし、あなたも僕を嫌いじゃないらしい。それなのに、我々は必要とあれば≪死ぬまで≫闘わなきゃならん段階に来てしまった。おかしなことだね」 「おっしゃるとおりです」  滝は認めた。 「しかし、うかがいましょう。先生も、私が、どんな条件を出されようとも、それだけで良から手をひくことは決してありえないってことは、ご承知のはずですよ。私はあれに賭けています。すべてをですよ──マネージャーに移った時点で、私は良がすべてであるという選択をしたんです。いまさらそれは変えられんし──変えるつもりもありませんな」 「わかっている。そこが、問題なんだ、滝さん──あなたが、良に賭けているということがね」  結城は組んでいた脚をほどき、ゆっくりと身を乗り出した。テーブルに肘をついて、髭をひっぱりながら、目を細くした。 「あなたは、良を、自分の作品だと思っている。自分のもの、自分のあやつり人形、あなたのセールスする商品だと思っている。そして、良をそう扱ってきた」 「そうです」  滝はちらっと、良との夢のような短い蜜月を思いうかべた。このきゃしゃな、美しい、茶色の冴えざえとした瞳をもった少年は、おれの運命それ自体であり、この少年にとってもおれこそが運命なのだ、というひそかな確信のことを考えた。この少年は、おれが自由にし、おれが従え、おれの人生を分けあう、おれの妻なのだ、という異様な思いに圧倒された瞬間のことを考えた。 「──そのとおりです。そうじゃありませんか? 良は、私のものですよ。私が良をいまのジョニーにしたんです」 「そうだ」  結城は美しい濃い、まっすぐな眉をぐっと寄せた。 「あなたが良を作った──だが、子供はいつのまにかひとり立ちできるようになって親をはなれる。作品はいつの日か作ったものをしのぐ。これ以上、そうであるからこそ──良を自分のものだとあなたが信じているからこそ、もうこれ以上良をあなたの手もとにおいておくことはできない。良は人形じゃない、商品でもない、あなたの自由にしていいものなんかじゃないよ。人間だ。ひとりの、生きて、愛したり苦しんだり悩んだりする多感な少年だ。あなたは永遠にそのことに気づかないだろうと思う。だからこそ僕は──良をあなたから奪わなくてはならない」 「いけません」  滝は低い、しかも恐ろしいもののひそんだ声で云った。 「いけない?」  結城の眉がぴくりと動いた。瞬時に、おだやかで平静なことばの下にひそめられていた、二人のはりつめたものが表面にあらわれた。滝は口辺に漂っていた静かな微笑を消した。 「良は私のものだ。誰にも渡しません」 「僕は、奪るよ」 「奪らせませんよ」  二人はぴたりと見つめあった。が、一秒もせぬうちに、結城は滝の気合を外すように、ふいとからだの力を抜き、かすかに笑った。 「こんなことを云いあってもしかたがない。僕はあなたが目の見える、頭のある人だと信じている。あなたはわかるはずだ。僕が云い出したからにはどんなことをしてでもそうすることが」 「先生は、何を恐れていらっしゃるんです」  滝は結城の微笑に答えず、鋭く切りこんだ。 「先生らしくないことだ。先生は、さっきから、何も手の内をさらさずに私をおろそうとしておられる。そんなに、先生のカードが、私にとってむごいものだというわけですか。私はどんなことでも平気ですよ。カードを出していただきましょう。さもないと、私は、先生はブラフで勝負していらっしゃるのだと思いますよ」 「なるほど──よかろう」  結城は笑いを消し、目をつぶり、少しじっとしていて、それから目を開いて滝をまともに見た。白い火のようなものが瞬間ほとばしったかとさえ錯覚させる、すさまじい目だった。 「何もかも──僕に云わせたいのだね。よかろう──僕はあなたとちがってブラフのはったりは使わないよ。生まれつき、勝負師じゃないんでね。従って──僕がロイヤル・ストレート・フラッシュだと云ったら、まちがいなくそのとおりだ。はっきり云おうかね。僕は、全部知ってるということだよ」 「全部?」  滝はちょっと笑おうとした。 「何を全部です」 「何もかも──あなたが良にしたことを……あなたが、あの子を、何回抱いたか、まで」  滝は黙って、結城の目を見た。攻撃に立っているのは結城だった。滝は無表情に結城のすさまじい目、意志と、闘志と、そして灼き尽すような瞋恚を叩きつけてくる目を受けとめているだけであった。 「良がお話ししたわけですね。そうでしょう」 「あの子を責めさせはしないさ。僕がむりやり云わせた。あの子は──妙なことだが、あなたを売るのをいやがったようだった。だが、さいごには、──そう、それこそ、何もかも、あなたの指図で誰と誰にどんな奉仕をしたかまで喋らせた。全部、きいたんだよ、僕は」  嘘だ、と滝は叫び出したくなった。良は全部喋ってなどいない、いるものか。良は責められたくなさに、何もかも滝がわるい、いやがる良を犯し、売り、無理やりに汚れた世界へひきずりこんだように話したはずだ。  良は、あの日々のことを話しているはずがない、と滝は思った。彼が良のものであり、良が彼のものであった日々を、山下に身をまかせながら良の目がひたすら滝を追い求めていた日々を、あの長崎の光の中の短い至福の日だまりを。  それを話していれば──彼が結城を正しく知っているならば、それを話せばまちがいなく結城は良を生きては帰さなかっただろうからだ。あのとき、良は彼のものだった──だが、それはどう証明すればいいのか。  良は、その冷酷でぼんやりした心の中で、滝を慕っていたときもあったことを隠して結城に嘘をついたつもりなど、少しもなかったに決まっている。  いまがすべての良の心にとっては、滝との日々など、あったこともないように、思いうかびさえしないはずなのだ。それが良という少年だ。滝はふっと、あたかもそんな蜜の日々など存在もしなかったのがほんとうなのではないか──自分は何か夢でも見ていたのではないか。そんな錯覚にすらとらえられた。 「──あなたが良を傷つけ、ゆがめ、わるくしたんだ」  結城は何か悲しみに満ちた口調で呟いた。 「何も知らぬ子供にすぎなかった良を犯し、踏みにじり、たくさんの屑どもに良のからだを売り、云うことをきかぬときには殴る蹴るの折檻を加えた──あなたにしてみれば、何がわるいということだろう。良はおれのものだ、おれの作品だと思っているあなたであればね。だが──僕がいる。もう、そんなしうちはさせない、あなたにあのきゃしゃな、しっかりした考えもないような子供を、もうそんなふうにはさせない。あなたが良をあんなにしたのだ。子供をちゃんとした大人に育ててやるのはおとなの責任だ。ましてその子供に正しい家庭環境も、自分でやっていく気概もないときには、周りのおとながどんな人間であるか、どう扱うか、がその子を決定すると云ってもいい。僕がもっと早く──だが、良を見つけて、拾いあげたのはあなただった。あなたはあの子のきれいな顔と商品としての価値だけを見た。あなたはあの子を淫売にしたてた──山下君に抱かれるのをいやがってあの子が逃げたとき、連れ戻した、保護者のあなたは何をした──あの子を、力ずくで犯したのじゃないか……それも愛からじゃない、欲情でもない、それならまだ、許しもできる。だがあなたは、あの子を自分の思いどおりに動く人形にするためにあの子を犯した。あの子はまだあなたの云ったことばを一言半句まちがえずに覚えていたのを、知っているか。あなたは──お前は淫売だ、二度と忘れるな、おれが足の裏を舐めろといったら舐めろ、おれが誰と寝ろといったら寝ろ、そう云ったと云っていたよ、良は──生まれてはじめてで、死ぬかと思ったけれども、そのいたみよりもまだ、あなたに云われたことのほうが忘れられなかった──そう、云ったよ、良は」  滝は一瞬目を閉じた。祈るように良を呼んだ。 (良! ──お前は!) 「良がもともとは高潔な、誠実な、素晴らしい少年だったなどとは云わない。だが良は悪魔じゃない、娼婦でも淫売でもなかったんだ。あの子はただ、愛に飢えた、不幸せなためにちょっと拗ねているだけの、気の弱い素直なやさしい子供にすぎなかったんだ」 (──ちがう! ──) 「良をゆがめたのはあなただ。良の心から、よい芽をつんでしまい、わるい芽だけをのばさせたのはあなただ。あなたは良から節操だの倫理という観念を失わせてしまった。保護者の手で何十人の男に売られて、そいつらの云うなりにいじりまわされ、しゃぶりつくされ──コール・ガールと川の字に寝かされて弄ばれるような生活をしていて、どうしてほんの子供にすぎない良が|しゃん《ヽヽヽ》とできる? ──あなたは、白井みゆきと佐伯のことを、あの子の悪魔のような資質の例として僕に吹きこもうとしたね。あなたは悪人だよ、滝さん。あなた自身が良をどこかのコール・ガールとこみで有力者の左右に寝かせるように売りつけたりしていながら、よくあなたは良の節操のことを云々できたものだ。良は悪魔じゃない。何がいいことで、何がわるいことか、見わけられなくされてしまっているだけだ。しかも、そうさせたのは当のあなたなのだ。ちがうかね、滝さん」 「いまは何も云いますまい。まず、ききましょう──それだけですか、先生?」 「それだけでは、足りないというのか。──あの子は、人を裏切ることの意味がわかっていないのだ。あの子は、僕がアメリカに行っているあいだに佐伯真一に誘われて寝た。何の気もなくだ──裏切るというような思いさえなしに、あの子は……僕はあの子に本気で惚れている。もう、生かしておくわけにはいかない──殺すつもりで、責めた。だが、話をきいたとき、気が変ったよ。どうしてあの子を責められる? わるいのはあの子じゃない。あの子には裏切りの意味さえわかっていないんだ。あの子には善悪の観念がない──滝さん、悪とは何か、意識のないものを、どうして悪魔と呼べる? どうして、責任を問うことができる? 悪魔は良じゃない、良じゃないよ──あなただ。あなたが、良をあんなにしたメフィストフェレスだ。僕が責めなくてはならない悪魔はあなただ、滝さん」  滝はふいにくっと笑い出して、すぐにやめた。 「失礼」  滝は肩をすくめて、ごまかすように咳ばらいをした。 「おかしいかね、僕のいうことは」 「別に──先生がそうおっしゃるお気持はわかります。ただ──」 「ただ?」 「この私が悪魔かと思うと、つい笑いたくなりましてね」 「ちがうかね、滝さん──ブラッドのこともある。山下君をあんなにしたのだって結局はあなただよ」 「私ですか」 「あなたは良のせいだと──良が≪|宿命の女《フアム・フアタール》≫のような存在で、ふれるものに凶運をもたらすのだと云っていたが……それはあなたのことだ。滝さん──魔王《エルケーニツヒ》、だ」 「これはまた」  滝はこらえられなくなったようにうつむいて長いこと笑っていた。水をぐっと飲んで、気持を落着ける。 「先生はもっとユーモアのある方だと思ってましたがね」 「とんでもない。それはあなたの買いかぶりだ。僕は、いわゆるデッド・アーネストという手の人間だよ。あなたのように、シニカルにはなれない」 「私はシニカルですかね」 「そうでなければ──サディストだな、滝さん。あなたは、良を傷つけるのを楽しんでいたはずだ」 「──それはそうかもしれません」  滝はまた口もとをひきしめて呟いた。 「そして良をああいう子にしてしまった。だが僕は──おそらく僕はあなたとすべての点で対照的な人間だ。僕はまだ遅くはないと思う。良をあなたの手から奪い、道義の観念や節操やちゃんとした生き方を教え、生まれ変らせてやりたい。良を卑しい芸能界のタレントばかの男娼でおわらせたくない」 「なるほど──私は悪党の女衒で、先生は正義の騎士というわけですね。いいでしょう。おおむね、そのとおりです。私は悪党だし、女衒です。正義の味方にやっつけられる敵役で、薄倖なヒロインをかどわかしていためつけるサディストだ。そのとおりですよ。認めましょう」  滝の声にはつきさすようなひびきがあった。 「だがひとつだけお断りしておきます。私はあのみなし児を、残酷に扱ったかもしれません。手が早いのもほんとうです。あの子は先生に何を云ったか知りませんが、私は決して弁解のできる立場じゃなさそうです。しかしこれだけは云っておきますよ。私は、あの子を愛している。出会ったその日からいままで、変らずに、首ったけだ、夢中だ、生命がけで惚れきって来たのですよ。失礼だが先生にはおわかりになりますまい。私は良を奪われるくらいなら、あの子を殺して、死にますよ。良に私を愛してくれとは云わない。そんなことは云いませんが、良は私のものだ。私のものにしつづけるために、どんなことでもします。どんな汚いことでも、むごいことでも」 「滝さん!」  ふいに、結城の端正な顔に、はじめて動揺があらわれた。彼は異様な目で滝を見つめて、唾を飲みこんだ。テーブルの端をつかんだ逞しい指の、関節が真白になっていた。 「あなたは良を愛していながら、あの子を力ずくで犯し、何十人の男に売り、──僕にあの子を愛させてさえ、何とも思わなかったのか。あなたは僕があの子に溺れこんでゆくのを穏やかに見て、──そうだ。僕にはわかる。あなたは自分をおさえきって、この僕にさえ、いまのいままで何ひとつ気づかせずにきた。僕でさえ……あのいつかの佐伯たちの話でさえ、あなたの嫉妬だとはまったく思わなかった。あなたは、苦しくなかったのか? あなたは、どうしてそんなことができた──それが、滝さん、あなたの愛なのか!」 「私の愛ですよ」  滝は鋼鉄の目を結城にすえ、サングラスをむしりとった。 「私にはこういう愛しかない。先生が良を抱くなら、お抱きなさい。私は先生から良を取り戻そうとなど、しませんよ。良は私が作ったのです。私のものだ。私はピグマリオンですよ──私はフランケンシュタイン博士だ。私の良がどこに行き、何をし、誰に抱かれようと、良は私のものです。先生にはどうなさることもできやしませんよ。私が良を作ったのです。良は奪わせやしない。それだけはしない。先生は良に慕われておいでだ。良のからだを自由になすってもいる。その上、何が欲しいのです? そこまでで満足なさったらどうです。良は私のものですよ。先生は──さよう母親から子供を奪おうとなすってるのです。わるい母親だろうと、ひどい仕打ちをしようと、どうしてこの絆を切れるとお思いになります? 私と良が別れるのはどちらかが死ぬときだけです。いや、私が死ぬときには良を殺してからにし、良が死ねば私もすぐ地獄の底まで追いかけて行きますよ。良の奴がいやだと云ったってはなしはしませんよ。  きっと私は気狂いなんでしょう。だが、──あの子を対等の、ひとりの人間として見守り、庇護し、大切に育ててやろうという先生のお気持は、私にさえ、清々しくて、美しくて、羨しいようにさえ思えます。しかし、いつだって理想よりは妄執が勝つんです。私は誰が良の恋人だろうと平気ですよ。その人が私から良を奪わぬかぎり、自由にさせておいてやります。私にとっては、恋人なんていう──対等の人間なんてものじゃないのですからね。私にとって、良は全世界ですよ。先生は結城修二というお名前もお持ちだ。良がだいぶ駄々をこねてお困らせしたようですが、先生ご自身のお仕事も、理想も、人生もおありになる。私は? 私は、無、ですよ。滝俊介という、ちょっとは通用していた名も、仕事もすてました。私は、今西良のマネージャーです。良のために使い走りをし、良の車のドアをあけ、良の背中を流し──恋なんてものじゃない。私にとって、良以外のものなど何ひとつ存在していないのですよ。私は先生が好きです。いつも立派な方と思っています。ですから申しあげるのです──どうか、私から良を奪おうとだけはなさらないで下さい。他のことなら、どんなことでもききましょう。ただそれだけは──私は、哀願しているのですよ、先生。私は自分が怖いんです。どうしても先生が私から良をひきはなそうとなさると──私は、自分でも、何をしだすかわからないからですよ」  結城は黙って滝を見つめていた。こんどは、滝の攻撃の番だった。結城はしかし滝ほどに自分をおさえきることができなかった。結城の目には何か恐怖にすら似たかぎろいがあり、答える前にグラスをあけて気持をしずめねばならなかった。 「──滝さん」  ようやく彼は呟くように云った。 「あなたは、怖い人だな」  滝は小さく肩をすくめてみせた。結城は眉を寄せ、なにか哀切な光を帯びた目で滝を見つめた。 「だが──それをきいては、僕はもうひくにひけないよ。あなたを、良の側に置くわけにはいかない。あなたの愛は、良をさいごには滅ぼす──あなたの愛は、なまじ憎しみや、残酷さよりもずっと怖い、ずっと危険だ……」 「こんなことを云うのは柄じゃありませんが」  滝は静かに云った。 「それが愛じゃないのですか、愛というものは──相手を焼き尽し、滅ぼそうとするものではないのですか」 「それは正しい愛じゃない。愛は相手をはぐくみ、守り、自らをこそ犠牲に捧げようとするはずだ。僕はそう信じる」 「だが、それなら、先生はなぜ良が佐伯さんと会ったと知ったとき、良を殺す気になられたのです?」  結城が突き刺されたようにひるんだ。彼は急に囁くような声になった。 「あなたは──良が佐伯と寝たことを、知っていたね」 「私は、良がいつ誰とどこへいったか、残らず知っています。一年前の今日あの子が誰と寝たかも調べればわかります」 「あなたは、良が僕や、他の男に抱かれることを、喜んでいたようだな。あなたは良を汚したかったのか……それとも、ピンでとめた蝶の標本のように良を眺めていたのか──あなたは、僕には理解できない。あなたは、狂人だ。狂っているよ、あなたは、滝さん」  滝は珍しく激しい苛立ちの身ぶりをした。 「それが何だというのです」  滝は云った。 「そんなことを云っていれば何になるというのです。私が先生の生き方をとやこう申しましたか。人間は作られたように生きるだけですよ。私を説得しようなぞと考えないでいただきたいものだ。私も先生を説得する気などないですよ。ただ、どうするか、だけです。私は良をはなさない。デュークにせよ私がどれだけ本気かわかれば、諦めるでしょう。狂人、結構、どうしてもとおっしゃるなら、私は良を刺し殺して腹を切るまでです。本気ですよ」 「よかろう」  結城は表情をひきしめた。ひるんだかぎろいが消え、彼は残酷とさえ云っていい表情になった。 「僕は──さいごまではこのカードを見せたくはなかった。云ってみればこんなことは僕よりはあなたのやりかただからね。あなたの十八番をとるのはあまりいいものじゃないが──あなたがそうまで云うなら、しかたがあるまい。滝さん、僕は決してあなたと紳士的に、それこそ騎士道に従って刃をかわしてるわけじゃない。きいてくれないならば、強制的にあなたを切らせる──まあ、消す、というだけの用意はある」 「私を消しますか」  滝は思わずまたにやりとした。結城は怒ったようにテーブルを平手で叩いた。 「冗談ごとじゃないんだよ。──滝さん。僕は、あるつてを辿って、今西良関係の尾崎プロの経理を調べあげた。良は世間知らずだ。実務に関して何の興味も経験もない。欺そうと思えば、赤子の手をねじるのと同じだ。滝さん、あなたは、事実上、良の収入をすべてあなたのふところに入れているね。良は鵜飼の鵜だ。下手をしたら、良はこれまで、現金をまとまってなど、一度も手にしてないのじゃないか? 月に何千万と、マルス・レコードと尾崎プロ──そしてあなたに儲けさせながらね」 「何をおっしゃるかと思えば、そんなことですか」  滝は失望したように云った。 「そんなことじゃないさ。まったく、あなたには感心するほかはない。あれだけ忙しく業務をやって、良の面倒をみて、その上によく二重帳簿を作って脱税から斡旋料まで抜け目なく頭を使えるね。僕は、あなたとマルス・レコードの裏領収証を手に入れた。苦労したよ」  滝は苛立たしげに肩を動かした。結城は首をふった。 「タレントの脱税をするのに、領収証を周囲の人間、すなわちマネージャー、付人、プロの事務員なぞの名義で切って収入を分散させてしまう、というのはどこでも使っている手だ。しかし、あなたはその分上乗せをして帳簿を作って、結局は良のギャラの七割ぐらいはあなた個人の収入にしている。その上にプロモーターとの裏金もある。これは、いくら取れるときに取るのが芸能界の常識だと云ったって、悪徳マネージャーと云われてもしかたのないところだよ。良があんな世間知らずだし、あなただってたしかに良を愛してはいるのだろうから、いわば良を私物化してるってだけでおさまっているから表面には何も問題が起こらんけれども、もしも良が誰かに知恵をつけられて、自分は食いものにされているんではないかとただ働きに疑問を持って、デビュー以来の決算報告を要求したり──それよりもしもあなたが悪心を起こして、本気になって良を食いものにする気になってごらん、良はまるで年季奉公に出されていくら稼いでもどんどん前借のふえていく女郎と同じことになってしまう。良が仮に急に人気をなくしたとしたら、あなたはお前の金など一銭もないといってあの子を蹴り出して、素裸で投げすててしまうことだってできるわけだ」 「私が良を?」  滝は愉快そうに笑った。 「そういうこともできるようなしくみにあなたが帳簿を操作していると云っているだけだ。そのかわりに良を同居させて、衣食住残らずまかなっているからという口実で、あなたは丼勘定にして、良個人には一回も正式にギャラなり給料なりを渡していない。してみると良の地位もどうなっているのだろうな。尾崎プロ所属タレントといってもその実、マネージャー滝俊介の抱えっ妓とかわらないのじゃないか──いや、あなたが悪徳マネージャーだなんてことがどうこう云ってるのじゃない。それこそあなた個人の問題だからね。ただ──それが、表沙汰になれば、やはりあなただってまずいのじゃないかね──いまや良に関する記事はどんなものでも売れる。『あのジョニーのマネージャーの背信行為! 意外、あれだけの大ヒット連発の人気者が無一文のどん底状態!』なんていう記事が出ても、あなた、さしさわりはないかね」 「先生、ご無理をなすっちゃいけませんよ」  滝はふっと目もとをほころばせた。 「失礼だが先生のような立派なかたぎのお方がそういうことに手を出されちゃいけません。私はゆすり脅喝《かつあげ》まがいに無理をとおす手を使うから何のかのと悪口を云われてますがね、何と云っても根っからの悪党の滝俊介だからこそその手もとおります。先生のようなかたが、そんなことをなすっちゃ、私は悲しいですよ。私の名なんか、汚す余地もないもんです。滝俊介ときけば、ご存知の方は残らずあああのわるい奴かと思いますよ。ご存知でない方はそれこそそんな奴いたかというもんです。私あたりを先生とご同類とお思いになっては困ります。修羅場の場数は踏んでいますよ。そんな記事は出ませんし、出ても誰も困りませんよ。デュークはいっさい承知ですし、税務署でも乗りこんでくれば、ちゃんと手の打ってあるところをお見せするまでです。それに先生は良が一応まだ未成年だというのをお忘れのようだ。私は保護者としての責任において良の財産を管理している──こういうわけですよ。およしなさい、先生、らしくもないことはおよしなさい」 「あなただけが悪人だと思ったらとんでもないまちがいだよ、滝さん」  結城はにやりとした。目を細めて滝の表情を観察しながら云う。 「あなたは良があなたの人形や猿まわしの猿じゃない、人間なんだってことを軽んじすぎている。良はあなたをすてることができるよ。良は僕になついている。僕がこれこれこうと、あなたが良をあやつって食いものにしていると吹きこんで目をさまさせてやったら──それでも良はあなたのために働くかな? 鞭でひっぱたいてステージへ連れ出して、歌わすわけにもいかないだろう?」 「|あなた《ヽヽヽ》は」  ふいに滝の防壁の一部が心ならずも崩れた。滝は自分をおさえようとしながら火のような目で結城をにらみすえた。 「あなたは良にそんなことを──そんな嘘八百で良を私に背かせるつもりですか。あなたはそんなことを云いやしませんよ」 「どうしてだね。僕は、できる。何なら、その二重帳簿を組長に見せたっていい」 「だめですね。デュークの承知のことに組長が口を出す筋はない」 「じゃあやっぱり良しかないというわけだ。あなたのアキレスのかかとは」  結城は吐息をついた。 「あなたはどう思っているか知らんが、良はあなたに未練などないんだよ。あっさり、あなたを裏切るだろう。そのあとは、僕が良を守る、あなたなどに殺させはせん」 「そんなことをして、この世界の筋も知らぬしろうとの先生がそんなことをして、とおると思いますか。先生は金の卵を生む鵞鳥を殺すのですよ。卵を取ろうと思ってね──私から逃げ出して、アイドル歌手今西良でとおせると思いますか。どこでも歌えなくなりますよ。それとも先生は良を引退させて女房がわりに家におくおつもりですかね。それもわるくはないが、私はマスコミに顔がききますよ。ジョニーと結城修二の異常な関係──どんなに、連中喜ぶだろうな。先生もおわりだ。おわりですよ」 「まだ話は済んでいないよ。ききなさい。僕は歌手今西良をこそ大切に育ててやりたいのだ。あなたが良の歌う場を妨害して、それで済むと思ったらまちがいだよ。ファンも黙っていない。マスコミもあなたの友人ばかりじゃない。そのときこそ僕の握っていることが効く。二重帳簿、脱税、ブラッドへの陰謀、大賞受賞のかげのあなたのやり口──これは僕自身が証人になる。あなたは芸能界から葬られる。笑って済まされることじゃない。良は犠牲者だ。その上あなたが良の妨害をするというなら──僕にだって力はあるさ。良をよだれをたらして欲しがってるプロはいくらでもある。たとえばモリプロ、マカベプロ──」 「本音が出ましたね」  滝は凄惨な笑いをうかべた。 「移籍をふりまわしておどかしですか。良のあのきれいな顔を硫酸でめちゃくちゃにさせたいですかね。やくざどもに二、三十人がかりであの子を輪姦《まわ》させたいんですか。どうなるか、わかってるはずですよ」 「あなたも、本性があらわれたようだ。だがあなたは良を愛してると云った。それは、できまい。少し考えるんだね。この上の問答は無用、あとは返答しだいってことにしようじゃないか。移籍か、あなたが手をひくか、だ」 「──後悔しますよ」  無理におし殺した声で滝は云った。目がぎらぎらと光っている。結城は典雅な身ぶりで肩をすくめ、彼に笑いかけた。 [#改ページ]     26  滝が家へ帰ってきたときには、そろそろ十二時をまわっていた。下から見あげた三階の窓はカーテンが閉まり、灯も消えていた。もう眠っているのだろうと滝は思った。階段をのぼってゆく自分の足音が重くひびいた。  良と暮らすようになってからこれで何百回、こうして良の眠りをさまさぬように、そっとドアの鍵をまわしたことだろうと滝は思った。彼は常にたくさんの仕事をかかえている。帰りはいつも遅かった。  良には、夜遊びをしてもいいから翌日の仕事にさしつかえないよう、必ず十一時までに帰るように云ってある。良の方はどうせそれを真面目に守っているわけもなく、滝の目をぬすむようにしてうまくやっているのだろうが、そこまでは縛りようがなかった。  三年、と改めて滝は思った。短い年月ではない。長いとも云えないが──そんなことも一度もこと新しく感じたこともないくらい、良にだけかまけていた。この日々が、いつかおわるかもしれないなどと考えたことすらないほどに、だ。 (まだ、敗けはせん)  彼は音をさせぬように居間に入り、上着とネクタイをとり、水を飲んだ。酔っているわけではない。全身の細胞のひとつひとつがびりびりと目覚めていた。  良は、何故、おれと一緒に暮らしているのか、結城はいぶかりはしないのか、と滝は思った。その点では山下の方が勘がいい。それとも結城は勝者の自信から問題としないのか。どんな喧嘩をしても、仲のわるくなっているこの頃でも、良は何のふしぎもなく「ぼくの家」と云う。 「今夜は先生んとこに泊めてもらうよ。あしたの朝早くにうちへ帰る」  そう、云うのだ。良にとってはこのマンションが我家なのだ。十五、六でもアパートでひとり暮らしをしているタレントはいくらでもいるが、生来淋しがりやで甘ったれの良は、ひとりで暮らすなどと考えたこともないようだ。良がこのマンションを出るときにはすべてがおわるときだ。おそらくは、結城のもとへひきとられるときだろう、と滝は考えた。 (そうしたらそのときさ。見ているがいい、生かして渡すと思っているのか、このおれが、おめおめと)  滝はそっと寝室のノブをまわした。良がいないのではないか、と突然病的な恐怖にかられたが、良はベッドでよく眠っていた。髪が頬に乱れかかり、枕に頬をつけて、稚い寝顔を見せている。  滝はベッドの脇にたたずみ、じっと見おろした。胸のいたむようないとおしさ、しかし結城とのことがあってから、もっとも深いところにたえざる苦しみがまとわりつくようになったいとおしさがこみあげてくる。  きれいだ、と思う。薄明りの中で、絹のような肌の色、青みがかった瞼の色、艶を帯びてみずみずしい唇の色がぼんやりとうかんでいる。 (からだの内側から、光がすきとおってくるようだ。美しい生き物……)  いまが、良の一番美しいときなのだ、と彼は、おそらく誰も彼にそんな表情があるとは知らぬ、溶けるようなやさしさと惑溺に哀しい表情で、見守りながら思った。 (この良はまだおれのものだ。良はここにいる。おれから逃げだそうとなどしない。このときだけは、おれだけのもの、おれの可愛いやつ、長崎のホテルで枕もとで見守っていたときと少しの変りもない、良……)  このごろ少し痩せたのではないか、と滝はしげしげと眺めながら思った。行儀わるく、布団をはねのけてのばした、パジャマのまくれた袖からあらわれている腕が、前よりもっと細いような気がする。骨細なたちで、それだけ細くてもごつごつした感じはせぬかわりに、いたいたしいほどきゃしゃに見える。衿もとから出ている咽喉や、胸のあたりも、こころなしか肉が落ちたようだ。目の下に、紫色の翳が妙に色っぽい。 (結城のせいだ。おれのことをどうこう云って──奴こそ、良を傷つけているのじゃないか)  滝は、あの見事な裸形の下に組み敷かれた良を思った。彼の感じた腹立たしさは、必ずしも嫉妬ではなかった。結城が、良をおれから奪おうとさえしなければ、おれはなんとか耐えられたはずだったのだ、と思う。  彼が良のからだを自由にしていることで、嫉妬を覚えたことはなかった。山下になぞ、一度も嫉妬したことはない。彼はただ良の心が欲しかった。それなのに、おれの愛が赦せないと──歪んだ、悪魔の愛だと彼は云うのだ、と滝は思った。 (自分の欲望にまかせて、良を抱いて、ひどい目にあわせ、苦しめ、やつれさせている彼が──)  だが、それを良は受け入れているのだろうか、と滝は小さいながら、だが真に深い心の疼きを感じた。 (そしてこんどはおれからさいごの分け前を──この良さえも、取りあげずにはおかないと云う……)  滝は悲しい目で良を見つめ、そっとベッドの脇に膝をついた。手をのばしてそのなめらかな頬にふれ、頬をすり寄せ、抱きしめたかった。その投げ出されたきゃしゃな手、ほっそりした足に夢中で唇を押しつけたかった。  ひとつに溶けてしまいたいほどにきつく抱きすくめながら、ありったけの気狂いじみた愛のことばを投げかけたかった。おれをすてないでくれ、愛している、愛している、愛している──だが、どんな反応がかえってくるのか、滝は知っていた。それとも、知っていると思っていた。これ以上のみじめな敗北をかさねることは、彼をほんとうに狂わせてしまうだろう。  結城を出しぬいてやろうか、と熱烈な欲望を感じて彼は思った。結城はおれが良を愛しているから、できないと思っている。たかをくくって、安心している。  だがおれにとって良がアキレスのかかとであるとまったく同じに、結城にとっても唯一の弱点は良なのだ。そしておれは、この良のからだがどれだけ汚されようと、めちゃめちゃにされようと、変らぬ愛で愛することができる、いや、かえって愛はつのるばかりだが、結城はそうではない。  だから、おれの方が強いのだ。たかが一晩佐伯と遊んだぐらいのことで、裏切りだの、殺すのと云い出す結城なら、これからさき、どうして、良をとおりすぎたたくさんの男や女のことをきっぱりと忘れることができよう。だがおれの愛は、そうではない。それどころか、そうさせたのはおれだと云っていい。  おれの愛がどんなものか、結城に思い知らせてやろうか、と滝は思った。屈強な組の若い衆を五、六十人も集めて、良を襲わせて、やろうか。  良は死んでしまう、と彼はぞっと戦慄するような快感を感じながら思った。このきゃしゃなからだがずたずたにひき裂かれ、つき破られて、血まみれでなぶり殺されるところを、結城に見せてやろうか。フィルムにとって、送りつけてやろうか。この細い手首を縛って天井からつりさげて、鞭で打ちすえてやる。ナイフで全身を切りさいなんでやる。バーナーで焼き、煙草の火をねじりこんでやる。おれは、そのまま死んだってかまわない。いや、良の息絶えた屍におおいかぶさってその場で死ぬ。それが、おれの愛だと、結城に思い知らせてくれようか。  覚えず、滝は凄惨な笑いに顔をひきつらせていた。恐ろしい昂ぶりを彼は感じた。これがおれの愛だ、と叫び出したい。そういう愛もある、そうしかできないという愛もあるのだ。おれは良を愛するゆえにこそ、たくさんの男に売り、弄ばせ、汚させた。おれを悪魔だと云うがいい。だが、おれはそんなことはかまいやしない。良だけだ。おれの心を動かし、満たし、生かすのは良だけなのだ。苦悩も歓喜も良とともにある。おれの生も、おれの死もまた良とともにある。愛している。そのことばのすべての意味で、愛している。人手に渡すくらいなら、奪われるくらいなら、この手にかけて殺してやる。  いつかは仕損じた。あのとき、息の根をとめて、それからガスの栓をひねるのだった。そうすれば、幸福なままで死ねた。良の目が、冷たくおれを見るのを知らないで死ねた。いまの良──安らかな寝息を立てている良、おれのものだ。冷たい目もない、おれの心をかきむしることばもない、結城のもとへ逃げようともしない……  滝はゆっくりと、震える手を少年の咽喉もとへ近づけていった。中途で挫折したことを、しまいまでなしとげるのだ。結城にざまを見ろと云ってやれる。彼は思い知るだろう、良が滝のものであることを──滝はそっと、がっしりと指を細い咽喉にはめこんだ。頭ががんがん鳴り、口の中に血の味がした。あと二分、いや、一分、力を加えればいいのだ。 (おれは敗けやしない)  彼の手が痙攣するように震えた。  そのとき、良がうーんと小さな吐息を洩らして、寝がえりを打った。はっとして、滝は手をひっこめた。反射的な行動だった。良の寝息が変らぬのをたしかめて、またおもむろに手をのばそうとする。  殺そうというのに、目がさめるもさめないもあるものか、と彼は自分を嘲ったが、良が目をさまして冷やかな目をむけてくれば、(おれのものであるままで、良を連れ去る)というひそかな甘いよろこびが微塵に打ち砕かれてしまうことはわかっていた。そうすれば、彼が良の息の根をとめたところで、それはいわば憐れな敗者のあがきにすぎなかったろう。  少し待って、また彼は破れるほど心臓をどきつかせながら、じりじりと良ののけぞった咽喉へ指を近づけていった。ぐっと握りしめようとした刹那に、良は目を開いた。まぶしそうに、寝ざめのぼんやりした表情で滝を見た。  そして、何を思ったのか、良はにこりと笑ったのだ。あどけない子供のような、あんなことすべてが起こる前のような、輝きを帯びた無防備な、無意識な微笑。  ──途端に、滝の全身からすべての力が抜けてしまった。彼は感動し、あやしいおののきにひたされ、奇蹟が起こったのかと信じられずに、だらりと両手を垂れて立ちすくんでいた。長いわるい夢からふっと目ざめて、ああ、やっぱり夢だったのだ、よかった、そう思うような心持がつきあげてきた。彼の心臓のどきどき鳴る音がきこえるようだった。 「ん……」  良はまた目を閉じ、まばたきし、目をこすって、のびをした。 「どうしたの。いま、帰ってきたの」  その瞬間、たしかに、良も──良を見おろしていた滝の表情のゆえか、それとも単にまだ頭が目ざめきっていなかったゆえか、良もまた、滝が自分を裏切ったこともなく、結城の愛もない、いつも滝がそばで見守っていたあのころのつづきの中で目ざめたと信じていたのだ。 「滝さん?……」  良はぼんやりと、甘えるように呼んだ。滝はそっと良をのぞきこんだ。そのとき、有無をいわさずに、すくいあげてそのからだを息がとまるほど抱きしめれば、よかったのかもしれない。だが、荒々しい動きがこの静けさを破ることを恐れて滝は全身を息さえひそめてこわばらせていた。 「いま、何時」 「一時ちょっと前──どうした、寝ないと、あした起きられないよ」 「うーん」  良は甘えかかるような、不たしかな声を出した。 「どこ行ってたの。ぼく待ってたのに──」  ふと良はことばを切った。ようやく、現実に、ピントがあった、という表情になる。滝ははっとして、身構える気持になったが、良はなんとなく戸惑ったようなようすで、滝を見ているだけだった。滝は手をのばし、布団を肩までひきあげてやった。 「風邪をひくぞ」 「ん」 「飯、隆と食ったのか」 「うん。カレー食べた」 「寝ろよ。起こして、わるかったな」 「ううん、早く寝すぎたから調子狂っちゃったんだ」  なぜか妙に戸惑ったようにことばをかわしながら、良は知らず、ひたすら滝の心につきあげているのは、ちがう、という激しいもどかしさだった。そんなことを喋りたいのではない。何か、ちがっている。ほんとうに話したいのはそんなことではない。  いまは魔法の時刻だ。なにかたったひとつ、奇蹟をよびさます魔法の呪文にゆきあたれば、それで、もう二度と苦しみも、悩みもしないでよいはずだ。良とひきはなされるなどと、夢にも恐れなくてよいはずだ。ふたりの心が相寄ろうとしている。どちらもそれをひそかにおののきながら待っている。たったひとつの、ほんとうのことば──そのキー・ワードだけで、こんなでない日々がひらける。たったいま、滝は良と共に死ぬことを思った。だが、良と生きることさえできれば…… 「──ふ──風呂に入ってくるよ」  だが、取り乱すまいと目を閉じた滝の口から出たのは、そんなつまらぬことばにすぎなかった。良はまばたきして、布団をひきあげた。なにも知ってはいないにせよ、何か妙だというぐらいは、敏感な良の心にはするどくひびいているのに決まっていた。  滝はあわただしく風呂をつかいながら、平静を取り戻そうと焦っていた。やけのようにからだをこすりながら、おれは何というばかだろう、と自嘲する。なんという意気地なし、だらしない男だろう。 (おれはどうして、こんなに自分の気持に素直になれないのだ。良を愛しているなら、愛しているとなぜ云えない。それで、良がおれの気持をわからないからって焦れて、叩いたり、いためつけたりして、どうして良の心を得られる──)  良は、おれがこんなに激しく、心のありたけで愛しているなどと、想像したこともないのだろう、と滝は思った。考えてみれば、どんなときでも、寄りそいあって幸福なときにも、そうでないときにはなおさらに、滝は良に愛しているなどと──可愛く思っているとさえ、ほのめかしでもしたことはなかった。  そんなことを云うと思うだけで照れくささに全身に冷汗をかくし、それよりも第一そんなことを云って良をいい気にさせるつもりはなかった。そんな歯のうくようなことを云わずとも、自然に心から心、目から目へ、伝わるものはあるはずだと、そう信じていたのである。 (だが──それがもしおれの怠惰であれば……)  かつて、あれほど、自分を慕っていた良だ、と滝は思った。もし、おれがどれだけ愛しているか、わかってくれれば、おれをはなれようなどという気持はなくしてくれはしないか。それとも良が結城を愛しているというなら── (そのときこそ、首の骨を折ってやるだけだ)  もう一回でいい、試してみたい、と滝は思った。 (やり直せない、ものかどうか──良が移籍の話を、知っていたのかどうか……結城を愛しているのかどうか……)  彼は心を決め、自らに勇気をかき立てた。からだを拭き、パジャマを着て、初恋を打ち明けようとする少年のように、胸をどきつかせながら寝室に入っていった。 「──良」  そっと声をかける。彼はついていなかった。良はすでに眠りに入りかけていた。 「良、寝てるのか」 「ん──もう、うるさいなあ」  良は眠たそうに、苛めっ子につつき起こされた猫のような不平の声を出した。 「なによ。眠いんだよ、ぼく」  滝はひるんだ。だが、とにかく話してしまおうと決心したことだけは話さねばならない。しかし、もう、魔法の時間は去っていた。  滝は何を、どのように切り出していいのか、さっぱりわからなかった。自分がおそろしく不器用なとんまに思えてしかたがなかった。 「良、話があるんだ」 「なに──やんなっちゃうな。明日じゃだめなの」  うるさそうに良は欠伸をした。ふいに滝はかっとした。 「だめなんだ。起きろ」  思わず激しい口調になって云った。良は目をこすり、不平たらたらで布団から首をのばしてまぶしそうに滝を見た。滝は進退きわまってしまった。少なくとも良の心にはさっきのふしぎな静謐な一瞬など、あとかたもなかった。いま、少年の心を占めているのは、眠たいということだけだった。 「あーあ」  良は遠慮なく大あくびをした。 「いいか、大事な話だ。真面目にきいてくれよ」 「何時だと思ってんの。まったくもう──いいよ、きいてるよ、わかったよ、早くしてよ」  その態度は何だ! と怒鳴りつけたい思いを、やっと滝はこらえた。次のことばはいきなり、彼自身さえぎくっとしたほどの勢いで、勝手に口からとび出していた。 「お前は、結城先生に何を吹きこんだんだ!」 「えっ?」  良が虚をつかれた表情をした。ふいに、思い当り、はっと青くなって身をちぢめ、布団のへりにしがみつく。すぐにも滝の拳がとんでくる、とすくんだ表情だった。滝の頭の中にくわっと熱いものがこみあげた。 「ぼく何も云わないよ……何を吹きこんだって……」 「おれがお前をどうしたとか、つまらんことをべらべらと嘘八百、並べ立てたろう。それで先生が何を考えついたと思うんだ。おれがお前をわるくする。何もかもおれがわるいのだから、何が何でもお前のマネージから追い出すとこうだぞ! この嘘つきの餓鬼め、それともそれは、お前の鼻声でねだった成果なのか」  ちがう、という声もいまはむなしかった。云いつのるままにこみあげてきた怒りに身をまかせ、滝は、こんなはずじゃない、という心の奥の困惑と悲痛の叫びに耳をふさいだ。 「滝さん、──叩かないで! ごめん、ごめんってば」  良はひどく怯えながら喘ぐように云った。目が大きく見開かれ、憐れな表情になっている。 「ぼく知らない──ほんとうだよ。誓うよ。ぼく知らない、そんなこと考えもしなかったよ、滝さんを追い出すなんて──それ、何のこと? 結城先生が追い出すって云ったの? ぼく知らない、何も知らない、だから──叩かないで!」  さいごはすでに半泣きの声だった。滝はぎりぎりと歯を食い縛った。良の怯えが、胸をえぐられるように悲しい。泣きたいのはよっぽど、良よりも滝の方だった。 「お願い──ぼくわるくないんだ。ぼく、いやだったんだよ。だけどあのとき先生がぼくのこと──云わないと殺してやるって……いたくって、死ぬかと思ったんだよ。ほんとに殺されそうだったの……だからつい──勘忍してよ。お願い、ぼく一度も滝さんを追い出そうなんて思ったことないよ。滝さんがぼくをいまのぼくにしてくれたことぐらい、滝さんがいなくちゃだめなことぐらいちゃんとわかってるもの……云うわけないじゃない。信じて──先生がむりやり云わしたんだ。ぼく死ぬところだったんだよ──ぼくのせいじゃない……」 「それで、お前は、おれと結城修二に殺し合いをやらせて、どっちが勝とうと知ったことかというわけで何から何までおれの悪事だと吹きこんだってわけだな。お前には、おれを追い出すつもりも、といって結城から逃げたいわけでもなく、ただその場をごまかそうというんであることないこと喋りまくったわけだな。わかってるさ──お前はそういう奴だ。喋ればどうなるかなんぞ、これっぽっちも頭にない、知ったことじゃないってわけだ。結城のような男がそれをきけばどう思うかさえ考えなかったんだな。何もかもおれがわるい、おれがお前をそう仕込んだから、お前が、恋人が四、五日留守にすればたちまち佐伯みたいな男娼の手管にのる自堕落な|おひきずり《ヽヽヽヽヽ》になっちまったんだとたきつけたわけだな」 「だ──だって!」  良はしだいに沈痛な口調にさえなってくる滝が珍しく、問答無用で張りとばそうとしないと見るなり、反抗の顔つきになった。 「何だ、云ってみろ」 「だって──そ、そのとおりじゃないか!」 「良!」 「ぼくを売ったの滝さんじゃないか! ぼくを淫売にして、いいように商売にしたじゃないか。ぼく何もわるいことないや、ぼくは嘘つきじゃないよ。ぼくのこと無理やりやったじゃないか。あんなひどい目にあわしたじゃないか!」 「良、きさまって奴は!」 「叩かないでよう!」  滝が激怒してベッドの方につめよったとたんに、良は布団をはねとばして向う側に逃げ出して、泣き声をあげた。 「お願いだからもう叩くのだけはよしてよ! みんな、ひどい、あんまりだよ、滝さんだって先生だって、ぼくのこと、思ってるみたいなこと口じゃ云うくせに、ぼくが嘘ついたっていっちゃ殴り、ぼくがほんとのこと云ったっていっちゃ殴るじゃないか。ぼくが可哀そうだと思ったことないの? ぼくが痩せてて小さいのなんて、ぼくのせいじゃないや──だのに、ぼくが力ずくでやられたらかないっこないからって、ちょっとでも思うようになんないと、ぼくのこと殴ったりふりまわしたりして! みんなそうなんだ。みんなおんなしだ。それでぼくにばっかり嘘つくな、どうするな、こうするな、ああしろ、こうしろって──ぼくどうすればいいの。勝手にしろってしか、云いようがないじゃないか。先生だって滝さんだって人並み以上にでかくって、腕っぷしも強いんじゃないか。それをいいことにして、ぼくをひどい目にあわして──みんながぼくを苛めるんじゃないか。ぼくは嘘つきかもしれないよ、だけどそれはみんなが自分の思うようになんないと叩いたり首をしめたりするからじゃないの! ほかにどうやって、自分の身を守れっていうの。空手でも習いにいけっていうの? スイッチ・ナイフでも、持って歩くの? ぼくはね、いつだって、きっといつか誰かに殺されるんだろうと思ってびくびくしてるよ。あなたか、先生か、誰か──誰かとふたりっきりで部屋に閉じこめられたりすると、またむりやり犯《や》られるんじゃないか、いきなり襲いかかってくるんじゃないかと思ってぞっとするよ。こんなこと、滝さんにも、先生にも、わかりっこないさ──人並み以上のたっぱとウエイトを持って生まれてきたひとにはね。だけどどうしろっていうの。でかくてごついように生まれ直すわけにもいかないじゃないか。あなたたちが、ぼくを殴るなんて卑怯だよ。少しは、ぼくが暴力でいいようにされるたんびにどんな思いをしてるか、どんなひどい目にあわされてるか、考えてみたらどうなの。ぼくはきっと長生きしないよ。できるもんか、こんなことばっかりされて──ぼくが衰弱して死んじまったら嬉しいんでしょう。叩けばいい──ぼくが死んじまうまで折檻すりゃいいんだ」 「うるさい! つべこべと屁理屈をこねるな。そんな話をしてるんじゃない!」  滝は激怒して怒鳴った。 「きさまのような小生意気な小僧は見たこともない。こちらがしてやることにはああだこうだ、不平たらたらでありがたいとも思わんで、ちょっとでも手をあげればわあわあわめきたててつまらん小理屈をこねまわすんだな。でかいの、小さいのって話じゃないだろう。きさまが性根がねじけているから、こっちはちゃんとしつけて、れっきとしたおとなに育ててやる責任があるというんだ! 殴られたくなけりゃ、きちんとしたらどうだ。口答えせず、ちゃんとした考えのあるように行動したらどうだ。一人前の口はな、小僧、一人前になってからたたけ──きさまなんぞ、人間じゃない。おれがいいように面倒をみてやってるんだ。おれの云うとおりにしてりゃいいんだ。おれのほかの誰がこんなにきさまのことを考えてる、きさまのことだけ考えてると思ってる!」 「ぼくにあんなことしといて、そんなこと──うっ!」  逐に滝の手がふりあげられ、良は頭をかかえてうずくまってしまった。 「畜生! やくざ! サディスト!」 「ほざけ! もっと殴ってほしいか」  どうして、こうなってしまうのか、と滝の中で途方にくれているものがある。こんなはずではないのに──良がわるいのだ、と彼は思い、やけくそで良のきゃしゃなからだをつりあげて、衿をぐいぐいしめあげた。 「く、苦しい──はなして」  意気地なく、すぐに良は泣き声をあげる。滝の手の下で、少女のようにすんなりして、かぼそいからだだった。 「お前はおれについてりゃいいんだ」  滝は激しく喘ぎながら云った。 「おれを信じて、おれの云うなりになっていればいいんだ。そうすれば、おれもきさまを殴るの、折檻するのと云いはせん。結城修二なんかに何がわかる。奴がきさまに何をしてくれた。何を犠牲にした──奴は自分の欲望さえ、きさまのためにおさえようとはせんじゃないか。おれはきさまをはなさん。決して、逃がしはせん。何があったって、どんなことがあったって、どんなことをしたって、逃がしはせん。死ぬまできさまにつきまとってやる。そのかわりにおれの生命もきさまにやる。はなさんぞ、良。どうしてもおれをすてるというなら、おれに殺されることを覚悟でそうしろよ。おれはもうきさまと心中の決心はとっくについてるのだ。それを、覚えとけよ、良、いいな、いいか」 「はなしてよう!」  滝がまだわずかな収拾の望みをひそかにつないでいたにせよ、それは良の憐れな、しかし徹底的な拒否の姿勢の前に微塵に砕け散った。滝のことばはそれ自体としてみれば、彼にできる唯一の形の熾烈な恋の告白にひとしかったのだが、それは良に伝わるすべもなかった。衿をつかまれ、またひどいめにあうのかと震えている良の目の中には、ただ恐怖と──そして力ずくで自分を自由にしようとする男への嫌悪の色だけがあった。 (良! どうして、わかってくれないんだ。こんなに愛しているんだぞ! 夢中なんだぞ──どうしろというんだ、良──ああ、良!)  心中に滝は呻いた。彼を支配しているのはいたたまれぬもどかしさ、と悲しさでしかなかったが、あくまで彼を拒否しようとし、滝の手をもぎはなそうと力なくもがき、彼の云うことなど耳に入れようともしない良を見ているほどに、その悲痛な思いは凶暴な怒りへあおりたてられていくのである。 (どうしてわからないんだ。愛してるんだぞ!)  再び、呻き声をあげて、滝は手をふりあげていた。良がびくっとすくむのに彼の悲痛な憤怒はあおられるばかりだった。一体どうすれば、良に自分の愛を受け入れさせることができるのか。良をひどい目になどにあわせたくない、それどころかその足で踏みにじられてもかまわぬほど愛しているのだと伝えることができるのか。  すべを知らぬもどかしさに、良に乱暴せずにいられない、滝は、泣きわめく少年をつかまえてさんざんに殴りつけ、しめあげ、つきとばしながら、殴る彼の方がよっぽどみじめで憐れな心持で苦しんでいるのだった。  はじめ、なんとかして逃れようとしていた良も、とうとう稚い子供のようにしゃくりあげながら、頭をおおってうずくまってしまった。滝はいっそ一緒に坐りこんで泣きたいほどだった。 「──わかったな」  唇を切らし、胸や肩にあざをつくり、頬を押さえて、恨めしげに、あてつけがましく呻いたり、しゃくりあげたりしている良を見おろして、滝は泣くような声で決めつけた。 「逃げようたって逃がしはせん。移籍のことなんか、云い出したら、きさまの顔をずたずたに切ってやるからな。先生が何を云おうと、それを覚えておけよ。今後先生にひとことでもくだらん嘘を吹きこむようなまねをしたら、半殺しにしてやる。いいか、ええ? わかったか」 「──ひどい……」  良は恨めしそうに、憐れな顔で滝を見あげた。 「あんまりだ……こんなこと──ぼく何も知らないって云ってるのに、先生が何思いついたか知らないけど、それでぼくのこと殴るなんて……ぼく何にも云わないのに──」 「もういい。お前が先生にこちょこちょ知恵をつけたと云ってるんじゃない。以後覚えとけということだ。もういい、寝ろ」 「あしたスチール写真とるのに、こんなに叩いて……ぼく知らないから」 「あとで少し冷やしとくんだな」  滝はいいようのない苦しさにとらわれながら呟いた。昂ぶりがしずまるたびに、彼は、良が何をしたというのか、と思い、良のきゃしゃでひよわなからだを思い、いったいどうしてこうなってしまうのか、おれは気狂いなのではないかと深刻な自己嫌悪にとらわれるのだった。  だが良が、どうしても彼の愛情を受けつけまいとし、理解もせず、こちらを向きもせぬようすを見、抱きしめようとする彼の腕からはもがいて逃げようとしつづけ、彼がまじめに心を通わせる努力をしようとしても、口答えかびくびくとあとずさるか、どちらかの反応しかかえってこないのを見ていると、彼は煮えくりかえるようなものに閉ざされてしまう。それもどうしようもないのだ。  宿命としか、云いようもなかった。その夜もまた滝には、い寝がての苦しさのうちにすぎた。  社長のデュークと会って、結城との会談の成果を報告したのは、その翌日だった。むろん、結城のたくらみの真相──(滝さん──あなたを、追い出したいだけだよ)──そんなことは、告げられようはずもない。適当に潤色を加えた。 「──やっぱり、さいごにはマカベがからんでくるってわけだな」 「まあ、そういうことでしょうね」  ふたりは苦々しい視線をかわした。 (良をよだれを垂らして欲しがっているプロはいくらでもある。たとえばモリプロ、マカベプロ……)  その結城のことばを滝はとらえたのだ。 「──ひでえことをしやがる」  デュークは舌打ちして呟いた。 「結城修二がそんな男だとは思いたくなかったが──やっぱり、とうしろうの、世間知らずのぼんぼんなんだな。そいつがどんな重大なことか、わかってりゃ、ちっとは、考えたはずだよ。この世界、それだけは──さよう、御法度の第一なんだからな」 「どうしますね、デューク」  滝はきいた。 「こう──なってくると、あたしの一存じゃ処置できないんでね、あなたに任せて、いうとおりにしますよ。良を、独立さすんですか」 「ふざけちゃいけないよ」  デュークは赤ら顔に、ちらりと本性をみせてすごみのある表情をうかべた。 「仁義破りのとうしろに、そんな舐めた真似されて、うちのピカ一をかっさらわれてたまるかい。先生だか、御曹子だか知らんが、そんな話ってねえだろう。なあに、組長だって、ほんとうのところは知っちゃいまい。うまく、ごまかされてるんだ。知ってりゃ、北辰連合のからんでくるようなこんな話、関口の御大だろうが、なんとか派の陣笠だろうが、きくわけがないよ。いいから、あんたの、いつものやり方でまとめてくれ、滝チャン。あと始末のくくりは、あたしがつけるよ」 「オーケイ、いいんですね?」  滝もまた、平素の人当りのよい、にこやかな顔などはぬぎすてた、残忍な、凄惨とすら云いたい、殺気の漂う顔になった。所詮、かたぎではないかれらの商売である。プロダクションの、社長の、マネージャーのとハイカラな名で呼んでみても、そこで目を見かわしてふっと微笑したのは、まぎれもない、二人の、やくざな暗い世界の住人にすぎなかった。人買いの、香具師のおきては決まっている。滝は親しくしている立川組の顔役に地回りを集めさせるように頼んだ。  だがそれはさいごの手段である。そうするためにはまずデュークから組長の了解をとったという一言を待たなければならなかった。独断で行動しては、関口洪作に対して組長の顔を潰した、ということになる。  関口への「挨拶」は自分で行かねばなるまいと滝は思ったが、その前に、こちらで打てる手があったら打ってみようと、親しいフリーのルポ・ライターに話を持ちこんだ。  芸能界につきものの汚れた裏面に結城の弱みをさがさせて武器にする心算だったのである。先生の、お偉方のとたてまつられていても、いや、いればいるほど、その仮面をはがしたあとの姿はあさましい。  有名作曲家が田舎娘を歌手の餌で釣って、家屋敷まで手放させて何千万をかたりとった揚句蹴り出したの、テレビのプロデューサーと結託して歌手を斡旋して裏金をとったの、自分が歌を作った歌手をスターダムにのしあげるために他の歌手を蹴おとす策謀を弄したり、曲をひきあげると脅迫まがいに世馴れない歌手の卵たちに売春まがいのことをさせて金を貢がせたりと、滝のようなものの耳には枚挙にいとまないほどに届いてくることである。  むしろ、それが仕事であるプロダクションの関係者よりも、どうせ作詞とか作曲というのもおもはゆいつぎはぎ仕事で先生とおさまりかえって体面をつくろい、その裏でむさぼれるものなら死人からでもむさぼろうというがっつきぶりのかれらの方が、芸能界の寄生虫としてその害毒は大きいのではないかとさえ、滝は思っていた。  まさか大会社の会長の御曹子の身分でゆすりたかりがましい真似こそしないだろうが、結城とて聖人君子であろうはずもない、とたかをくくったのである。  だが、いつもなら三日とは待たせずに耳よりな話を掘り出してきてくれるトップ屋の野々村が、今度にかぎって当惑したように不首尾を報告にきた。 「だめだねえ、うめえもんだ。何もやってねえってこともねえと思うんだが、とにかく尻尾を出しゃしないんだね。それに金の方はたしかにがっついてねえようだよ。ま、あるんだろうからなあ──そりゃ三島コンツェルンの動かす資本に比べりゃ、芸能界の金なんざ、目くされ金だ、ケタがちがうとさ。高木マヤの売り出しにも、たいしてネタになるような真似はしたとも思えんね。それじゃってんで色がらみをあたってみたんだけどさ、こっちもお手あげよ。据え膳てのは食わん主義らしいし、別れた恋人連中とは全員親友づきあいだものね。たしかにまあ、人物は人物なんだね。なんたって、進退がすっきりしてやがるよ。もうしょうがねえ、あんた、いつもの手で行ったらどうだい。ええ? 美人局《つつもたせ》でさ」 「無駄だろうな。奴さんが据え膳食わん主義で、しかもいまこれだけいかれてる良ってものがいて、それでこんなことをおっぱじめようってんだ。向うも肚をくくって警戒してる最中だってのに、まずおめおめ乗る結城修二じゃないさ」 「なあるほど──辛いとこだねえ。ジョニーのことばらすって云っても、ジョニーを巻きこんで共倒れになっちゃ、あんた元も子もねえもんなあ」 「それどころじゃないんだよ。僕はこの恋をどこへ出しても恥ずかしくない、全世界に知ってほしいほど誇りに思っているって、鼻息なんだぜ、ノムさん」 「まあ、人物だよね」  野々村はもう一度云った。 「立派な男だし、男らしいし、とにかくしゃんと身は始末してらあね。本物ってこったね。惚れるねえ──すっきりしてるよ。さすがだよ」 「あんたがそんなこと云ってちゃ困る」  滝はしょっぱい顔をした。 「こっちはそれこそ先生が道におちてる財布ネコババしたなんてことでもいいから、奴さんの弱味をつかみたくって、死物狂いなんだぜ。──まあ、つづけてみてくれよ。いかな奴だって、一回ぐらい、魔がさしたってことはあるだろう。バージンに手を出したとか、裏金を取ったとか、恨んでる奴のひとりぐらいいるだろう。今度は下手すりゃ、組長や関口の御大の面前でさしの対決、なんてことになりかねねえ、下手にでっちあげたらこっちの首が危ねえからなあ。頼むよ。何か、あるだろう」 「無駄だとは思うがね、やってみるよ」  野々村は肩をすくめた。 「しかしまあ──ついに滝俊介もほんものの好敵手にぶつかったってことかね。せいぜい知恵を絞って、共倒れや返り討にあわんようにすることだね」 「放っといてくれ」  滝は恐ろしくいやな顔をして云った。  彼は、自分がいつになく焦り、余裕をなくしていると認めないわけにはいかなかった。  それも無理はないと思う。結城は滝の二重帳簿の証拠を握っているとはっきり云ったのである。  これまで、滝は常に、自分が相手の弱みを握って、優位にたって事を運ぶようにしてきた。弱みがないとなれば、美人局やでっちあげをやってでも、弱点をこしらえた。  滝の性格は、そうして相手がいやいやながら彼の云うなりに動かねばならなくなるのをひそかに楽しんでいるところがあった。好意ある協力を得るよりも、力ずくで踊らせる方が彼の嗜好にはかなったぐらいである。  だが、いまは彼の方が追いこまれている。いつもと逆の立場は、彼を耐えがたいほど苛立たせ、性急にさせた。彼はさらに二日、待って、野々村からかんばしい報告が入らなかったとみると、じっとようすをうかがってはおられなくなった。  彼は、最後の手段に頼ろうと決心した。独断専行の責任はあとでとる覚悟があればよい。 (ぐずぐずしていては、良を失ってしまう)  それだけではない。滝自身の上にも火が及んでくるのだ。彼は良に帰すべき収入を大半私していた。彼の心の中では、良へのその激しい愛着と、その良を傀儡として利益をむさぼることはなんら矛盾していなかった、というよりは、すでに彼の心中で良は彼の私有物、彼の一部としか思われなくなっていたために、良に金銭的にでも独立の形を与えることを厭《いと》うたまでの話だ。  しかし客観的に見れば、たしかにそれはかなりあくどい悪徳マネージャーの手口なのにちがいなかった。デュークが彼を庇いきれないとみて敵にまわってしまえば、すべてはそれまでなのだ。 (オーケイ、あんたはやり手だよ。陣地を固めておいてからいきなり真珠湾攻撃と出たわけだ。そんならそれで──こっちも、やりたいようにやらして貰うまでさ)  滝はほぞを固めた。彼は集めさせた地回りにこまかいことを教えた。 「だけど、大丈夫なんだろうね、滝さん」  ちんぴらどもの頭かぶの、通称をジャックと自己紹介した兄貴分は相手を結城修二ときいて心配そうだった。 「有名な野郎だしよお──親父が、べらぼうな金持だってんだろ」 「心配しなさんな。殺すわけじゃないんだから。それに、責任はおれが一切とるさ。とにかくあんたたちは、奴をいためつけて、当分動けないようにしてくれりゃいいのさ」  なにか途方もない、自棄と云いたいくらい無謀な、奇妙に判断力も麻痺してしまったようなたかぶりが滝をとらえていた。こうなったらおれは徹底的に悪役になってやるさ、と彼は自らに云いきかせていた。 (結城は脅迫で手をひく男じゃない)  しかし、腕を折るの、あの端正な顔に傷をつけるの、という話になったらいくら彼でもひるむだろう。弱みを握られているのがこちらである以上、彼は居直るほかはなかった。こちらがそのぐらい死物狂いになっていることを知らせ、諦めぬなら本気でやるぞとからだに叩きこんでやる。  ほんとうは良の目の前で襲わせた方が、効果はあるかもしれなかった。しかし、いかな滝でもそこまでの勇気はなかった。良にどうせ隠しおおせはしないにせよ、面前であるとないとではショックがちがう。滝はその愛人たちの行動を調べ、結城がようやく打ちあげた白崎裕の海外レコーディングのテスト製作の、デモ・テープの編集で珍しく良と会わぬ晩の帰り途を狙った。  あまり彼の家に近くてはニューロックの若者たちでいつも結城のアトリエにたむろしているような連中がききつけるかもしれない。  都内やハイウエーではなおまずい。慎重に計画して選んだのは、結城の車が五日市街道を折れて武蔵野の宅地造成中のもとの林のあいだを抜けてゆこうとするあたりだった。  十二時をとっくにまわり、人影は皆無である。二台の車に分乗したちんぴら連中が、ブラックジャックだの、チェーンだの、好きな得物を用意して、林の影にひそんで待ち受けた。  手順はできていた。リハーサルまでやったのだ。  すべては、そのとおりに運んだ。結城の車が曲がってくる。ちんぴら連中の車が無燈火でとび出して鼻づらをぶちあてる。危ないじゃないかと怒って結城が車をとめるところを、もう一台でうしろをふさぎ、ばらばらと十人ばかりが取り囲んでしまう。  滝は、予定どおり、自分の車の運転席からじっとようすをうかがっていた。彼の心は昂ぶっていた。  我ながら異様な昂奮と期待と、そして不安が彼を平静に装うためにいつもの数倍の努力が必要なくらい、かき乱していた。  結城修二という、美貌の、幸福な、そして恋仇である男をいためつけ、屈服させるということに、滝は肉体的な昂奮を覚えていた。  同時に、結城に彼の描いている結城修二のイメージどおりにさっそうとしたところを見せて貰いたいような愚かしい心持も、その正体を暴露してやるという意気ごみに混ってうごめいているのだ。  複雑に錯綜した心理で、彼は、ほとんど灯火もない道の中央で、ぐるりと柄のわるい連中にかこまれた結城の長身を見つめていた。 「僕が誰だと知ってのことだね。人ちがいということはないね?」  結城は黙って、人数を調べるようにしばらく見まわしながら彼のベンツに寄りかかるようにして立っていたが、それから腕組をといて、作法に従うのは礼儀だからと考えているというようすで落着いてたしかめた。うるせえとちんぴらの誰かがわめいた。 「──滝さんも一緒か?」  結城の声はあくまで穏やかである。 「一緒のはずだな。あの人はひとまかせでじっと待っているタイプじゃない」 「うるせえ、かっこつけやがって。そのかっこいいスーツも、車も、めちゃくちゃにしてやらあ。そのすかした髭も頭もライターでちりちりに焦がしてやれって、云われてるんだからよう」 「この野郎、おうようにかまえやがって、いけすかねえ。兄貴、こんなにおれたちなんぞ屁でもねえって面しやがったからには、頼まれ仕事のやっつけじゃねえ、たっぷり、念入れてもてなしてやらなきゃ気がすまねえよう」 「おお、すっ裸にひんむいて、助けてくれってひいひい云わして、しょんべん洩らさしてやろうじゃねえか」  結城の冷静な、いってみればあたりをはらう風格につつまれた応対が、たちまち昂ぶりやすい地回り連中の頭にくわっと血をのぼらせたらしかった。 「つまらん真似はやめたまえ。こういうことをして、済むような段階はすぎてしまっているのだ。滝さん、きいているかね」  結城は声を大きくした。暗闇をすかし見るようにして、つづけた。 「出て来たまえ。あなたの顔を見たくなったよ。いまさら、頭隠して尻隠さずをやっても仕方あるまい。そこにいるのだろう?」 「なあにを、寝言云ってやがるんだ。誰も、いやしねえぞ」 「野郎、畳んじまえ。のしちまってから、ゆっくりもてなしてやらあ」 「オラオラ痩せ我慢してねえで、助けてくれっとわめくぐらいの可愛げは見せなってんだよう」  ちんぴら連中は、呑まれているな、と滝はじっと身をひそめながら見てとった。一応立川組という大組織がバックにある連中なのだ。  そのへんの不良グループよりは筋金の入っているはずが、気のきかぬズベ公のように口で威勢をつけては、目ばかりぎらぎらさせ、腰を落して彼のまわりをぐるぐるまわるばかりで、とびかかれない。滝は舌打ちした。それがきこえたかのように、これではならぬと考えたらしくリーダーがヒステリックな声で 「やっちまえ!」  と叫んだ。 「お──おおっ!」  気を取り直して、ちんぴらどもが殺到しようとする。その瞬間、滝に、彼自身にもわからぬ激情がつきあげてきた。  結城はいくぶん長い脚を開きぎみに立ち、力をかるく抜いて両手を垂らして車を背にし、攻防の自在なかまえでゆったりと待ちうけ、とても自然で、落着いて、力強く、美しい猛獣のように見えた。  その彼を目にした刹那に、つきあげるように滝は、この男だけは闇打ちにしたくない、と激しく思ったのだ。  どうせ十分に卑劣な手段に頼ってはいるけれども、せめて自分がここにいると知らせ、あんたの本性を見届けてやるぞとでも云ってやらねば、その結城の威厳と風格に圧倒されてしまい、たとえ叩きのめそうとも敗けるのはこちらなのだ、と突然に身にこたえて悟った。  滝はドアをあけ、道へおりて、ぬっと進み出た。とびかかろうと、腰を落し、じりじり隙をねらっている三下どもの背中へ鋭く声をかける。 「おい、やめろ。ちょっと待て。ジャック、ちょっと待ってろ」 「何だよ、滝さん、水入りかよう」 「やあ、いたね」  不服げなジャックたちになど目もくれずに、結城は行きつけのクラブででも出会ったような顔で、かすかに笑いかけてきた。 「顔を見せてくれて、嬉しいよ、僕は。あなたを見そこなったかと思っていたんでね」 「ちょっと待ってろって云うんだ。なにも、先生がわかりのいいところを見せて下さりゃ、野暮な腕立て沙汰でもないじゃないか。念のためってやつをやるから、一分、待ってなよ」  滝はようやく殺気立ってきたやくざどもをなだめるようにきつく云い、それから結城に笑いかえした。 「もう面倒なかけひきは省略だ。先生、良から手をひいて下さいよ。いや、ただあたしを追い出すなんて了簡をすてて下さりゃいいんです。あたしだって何も先生をいたいめにあわしたり、せっかくの右腕をへし折ったりさせたかありませんよ。私は先生のピアノが好きなんです。もうきけないとなりゃ、悲しいですよ」  本気ですよ、なぞと念を押すにも及ばなかった。滝の全身を、彼自身にすら感じとれる異様な、白い炎のような殺気がつつみこんでいた。彼はすごい笑いをみせた。 「先生が私をここまで追いつめたんですよ。私は気が狂う瀬戸際なんです。私から、良をとらないと云って下さい。マルス・レコードの領収証だか、裏帳簿だか知らんが、その証拠とやらを私に下さいよ。でないと、私は、何をしだすかわかりませんよ。先生に渡したくない、ただそれだけで、生命より大切なあの子を殺しちまうかもしれませんよ。先生の顔を切り刻むのだって、平気ですよ。さあ、答えて下さい。良をとらないと、云って下さいよ。お願いだ、先生、私に自分でもどうなるかわからんようなことをさせないで下さい。先生を傷つけたか、ないんだ。頼みます。このとおりです」  滝は地面に膝をついた。アスファルトに手をつき、額をすりつけた。結城は覚えず身をひいた。世にも恐ろしいものを見たような表情が平静だった顔をひきつらせていた。彼は怪物を見る目で滝を見おろした。 「──やめてくれ」  結城は呻くように云った。 「あなたのそんなところを見るのはいやだ。好きにしたらいい──腕を折るなら折りたまえ。顔をめちゃめちゃにするならしたらいい。僕はもう、何も手むかいしない。気の済むまで殴りたまえ。しかしそんなことはよしてくれ! あなたは気狂いだ。で、なければ、卑怯な名優だ。そんなことはせんでくれ! 下劣だ!」 「私は下劣ですよ!」  滝も激昂して叫び出した。 「私は御曹子でも正義の味方でもない。いかさま師の、ゆすり屋の、蛆虫ですよ。かまやしない──あなたは何でも持っている。私にはあの子しかないんだ。どうして、こんなことができるんです? あなたがきいてくれるまで、私はこうしてますよ。あなたの靴だってべろべろ舐めてみせますよ。這いずりまわって泣いてみせますよ。私には自尊心なんてありゃしませんよ。良が盗んじまったんです。もう私は昔の滝俊介じゃない。昔は、人殺しまではやる勇気がなかった。いまの私ならできる。できますよ──もっと酷いこともね。してみせますよ」  滝は右手をふって合図した。 「してみせますよ!」  絶叫すると同時に彼はとびすさり、ためにためられて満を持した矢と化してちんぴらどもが結城に殺到するのを見守った。結城は静かに立っていた。一瞬、ぬきんでた彼の長身は、戦場で雑兵どもにむらがられた百軍の将のようにきわだっていた。  彼は手をだらりとしたまま抵抗しなかった。やくざどもにひきずりまわされるままになり、つづけざまに襲いかかる拳に全身の筋肉を極限まで緊張させて立ったまま耐えた。踏みこたえる彼の姿が滝の脳をかっと熱いもので焼き尽した。  もうおれはだめなのだと滝は思った。さいごの砦も明け渡してしまった。もうどうしたって同じことなら、とことんやってやる。 「やっちまえ、ジャック! 何をしてる、計画どおりにやれ、叩きのめしてから腕をへし折るんだ! そいつをどうして使わないんだ」 「わ──わかってるよお!」  ジャックが夢中でわめいた。真青な顔で目が血走っている。かれは仇名の由来のブラックジャックをベルトからつかみとり、びゅんびゅんとふりまわした。そのときうしろから誰かが倒れぬ結城に業を煮やして鉄パイプで思いきり叩きつけた。  結城はついにぐらりとして、膝をついた。すぐ立ちあがろうとする逞しい体の上に、おりかさなるように十人のちんぴらがとびかかった。 「押さえろ。押さえつけるんだ──おれがこいつで両手の指、ぐしゃぐしゃに叩きつぶしてやらあ……この野郎ものすごく力がありやがるから気をつけろよ──そのあとは滝さんが料理するってよう──しっかり押さえたかよ? おい、サブ、光夫?」  ジャックが血に飢えたおめきをあげ、むやみとブラックジャックをふりまわしながら叫んだ。 「い──いいぜ、兄貴」 「畜生っ、すげえ力だよお」 「暴れんなってのに!」  かれらは結城を押さえつけ、そのがっしりした腕をはりつけの形に地べたへひろげさせようと焦っていた。結城はその軍神の彫像のようなすばらしい体躯のあらゆる力でのたうち、はねかえそうとしつづけ、十人がかりですらちんぴらどもの細腕ではすべての動きを封じることもできなかった。  それは卑しい猟師どもの罠にかかった巨大な百獣の王を思わせた。ちんぴらのひとりが思いきり蹴りとばされてギャッと叫んで吹っ飛んだ。残るものも激しく喘いでいた。 「あき──あきらめがわるい野郎……」 「畜生、ばか力め! ジャック、早くしてくれよお!」 「よ──よしッ!」  ジャックがわなわな震えながら武器をふりかぶった刹那! 「ばか野郎!」  結城が大喝した。すさまじい気合だった。はなれていた滝すらびくりとした。遂に獅子は憤怒をほとばしらせた。おもてもむけられぬすさまじさである。役者がちがうとはこのことだった。結城は無造作にちんぴらどもをふりはらった。 「滝さん! 良は僕のものだ。見ておくがいい──僕はあんたの脅しなど何とも思わん。あんたは良を愛してるだろうが、僕の愛が劣ると思ったらまちがいだ。見ろ!」  いきなりぐいと手をのばして、結城はブラックジャックをむしりとった。完全に気を呑まれて立ち尽している三下どもを押しのけ、ベンツのボディに手を乗せ、右手の武器を無造作にふりおろす。誰かが悲鳴をあげた。 「見るんだ、滝さん。僕の腕がなんだ。よかったら両手でも折るがいい。あんたは狂人だ。良を殺してしまう、あんたのような愛は許さない。僕を殺すなら殺してみろ。僕は幽霊になって良を守ってやる」  再び結城は腕にブラックジャックをふりおろした。 「や──やめてくれよお!」  誰か気の弱いのが絶叫した。やにわにジャックが真青な顔をひきつらせて滝にかけよった。前渡しの金をさしだす。 「かえす──おれおりるよ、滝さん、済まねえ……怖いよ、おれは、いやだ。三島コンツェルンを相手にまわすなんて──結城大作の息子を殺すなんてできねえよ。おりるよ、勘忍してくれ」  ジャックがまろぶように車にかけ寄ると、わあッと三下どもがつづいた。まるで、かれらの乱暴のために服は乱れ、血を流し、右手にブラックジャックをふりあげ、傷ついた左手をのばしてまっすぐ立っている結城への激甚な恐怖にとらわれてしまったかのようだった。  滝は身動きもしなかった。車が慌しく逃げ去るのを、ふたつの立像さながらに対峙して、滝と結城は見向きもしなかった。  やがて結城は、静かな顔をふっと──明らかな憐憫にかげらせて、滝から目をそらし、左手をポケットから出したハンカチでつつみ、ブラックジャックを落し、何も云わぬままベンツに乗りこんだ。  なぜとなく、結城は滝に許しを乞うてでもいるかのようだった。  ベンツがすべるように発車する。  月が出て、うす明るい路上に、滝はただひとりで残された。深い、いまだかつて知らぬ敗北感だけが彼を浸していた。それは結城の目に、憎悪も侮蔑も消えた、やさしい憐憫を見とった瞬間に滝を打ちのめしたのである。  麻痺し、虚脱したように彼は夜の路上に、時間も忘れ、何も考えられずに立っていた。それからのろのろと自分の車に近より、乗りこむ。このまま死ねたら、と思ったが、自分には殺人はできようとも自殺ができぬことぐらい、彼にもわかっていた。結城を殺さずに済んだと思ったとき、ふと滝は異常に深いよろこびを感じた。  彼は車を出した。雨も降っていないのに、しきりに窓の外の灯がにじむ。彼はガラスをこすろうと手をのばし、それから気づいた。我知らず、彼はぽろぽろと涙を流していたのである。 [#改ページ]     27  滝は敗けたのだった。完膚なきまでの敗北だった。すべてをかけた賭けに、恋に敗れただけでなく、男として、人間として、結城修二に破れた。  はじめから、そんなことは、わかりきっていたさ、と虚脱して滝はぼんやり考えていた。おれははじめから、いやでたまらないのにむりやりにヘヴィーウェイトの試合のリングに押し出されたミドルウェイトの選手みたいなものだったのだ。  自分のことはよく知っている。知っているからこそ、自分のやりかたを大切にして、その範囲で賭けもし、冒険もした。だからこそ、勝ち進むこともできたのだ。  だが、他にどうしようがあっただろう? 結城の襲撃にみごとに失敗してからの一週間というものは、なにくわぬ顔で仕事をし、打ち合せをし、喋ってはいても、その奥で、いつ結城の手が下されるか、いつ組長から呼び出されて、(おれの顔をつぶしてくれた)ときびしい制裁を受けるか、それとも何かの雑誌なぞに彼の不正が暴露されるのか、そればかりが彼の心を占めていた。  死刑の執行を待つ囚人の心だ。思っていたより、何倍も、おれは弱い、と滝は自らを嘲った。  しかし、一週間待ったが結城の報復は下されず、彼がどうやら滝の卑劣な非常手段を滝の錯乱の結果と憐れんでかどうか、今度だけはという含みでか見逃してやるというつもりでいるらしいとわかったとき、滝の中には、また一種別のつきあげてくる憤怒が生まれた。  それは彼のついぞ知らなかったような、無力な、それだけにいっそう苦しく狂おしい怒りだった。この|おれ《ヽヽ》を憐れもうというのか、と滝は自らの無力さに泣きわめきたい心持で思った。そこまで、人間は、むごくなれるものか。  移籍、なり、独立と決まったらその晩──彼が去らねばならぬその晩に、良を殺そう、と彼は決心した。それは重苦しい、これっぽっちも激情をともなわぬ、むしろ義務で彼を縛るような決意だった。  それは必ずなされる決意だった。彼はそれがなされることを確信していたが、さらに一層確実にするために、つてを求めて不良少年の使うスイッチ・ナイフを手に入れ、それをそっとポケットに忍ばせて持ち歩いた。  殺すからには、なるべく苦しませて、むごたらしく殺してやるのだ、とせめてもの復讐の快感を覚えながら滝は考えた。首をしめるのはたやすいが、良のからだを傷つけた方が結城が苦しむだろう。  滝は、自分の考え方がすでにどこかで常軌を踏みはずしたそれになっているのに少しも気がつかなかった。彼にはすべてが完全に論理的で、当然の成行き──というよりは可能な唯一の帰結に従っているとしか、思われなかったからである。  彼はすでに敗者だった。ポケットにナイフを忍ばせ、たえずそれにふれて、誰もいないところではそれの使い方を子供のように試してみたりしていることで何とか滝は平静を保っていられたのだ。  で、なかったら、一週間ほどして、『ラブ・シャッフル』の次の曲の打ち合せのためにはじめて結城と顔をあわせたときに、ほんとうに発狂してしまったろう。それとも取り乱したり、何かみっともない騒ぎを──彼のいちばんたまらぬことだ──演じてしまったかもしれない。  実際には、彼は、穏やかに笑いながら結城に挨拶し、我ながら驚いたのだった。結城の方も少し驚いたらしい。 「どうも先だってはご迷惑をおかけしてしまって──もう、よろしいんですか。心配しましたよ」  結城は左手を首から三角巾で釣っていて、それが妙にさまになって見えた。袖を通さずに羽織っている上着をひき寄せながら、彼はなにか満足げににこりと笑った。 「どうなすったんですかその手」  佐野ディレクターが驚くのへ、なだめるように目もとで笑ってみせる。 「いささか、僕もやきがまわってね。泥酔して、階段から落ちて、くじいちゃったよ。なに、大したことじゃないんだが、僕は人に甘やかして貰うのが好きなんでね。甘ったれなのかな」 「おやおや、先生がそんなことをおっしゃると、妙な塩梅ですねえ」  佐野は疑いもせずげらげら笑っていた。佐野が中座したときを見はからって滝は囁いた。 「また、私の失点1ですな。お詫びはしますよ。私は借りっぱなしは嫌いです。先生のマッチポイントだが、まだあまり安心なさらんで下さいよ。野球は九回二死からと云いますしね」 「あなたの、そういうところが、こたえられないなあ」  結城はくしゃっと目もとをほころばせ、太陽のように輝きを放射してくるあの表情を見せた。 「TKOかと思ったが、立ち上ってくれて嬉しいね。僕は死体をけとばしたと思うと実にいやな気分になる方だから、これでまた安心していろいろできる。しかしなるべくなら、もう番外はやめておこう。それからね、せっかく心配してくれたから云うが、この手は、たいしたことないから、大丈夫だよ。あまり借りだと意識されちゃ面白くない。僕だって人並の悪知恵はあるんでね。上手に、ダメージを与えんように叩いたからね」 「そりゃ、よかった」  滝は真顔で云った。 「この『別れのエチュード』の発表会を、『ラブ・シャッフル』の百五十万感謝をかねてやるのが二週間後ですからね──この席では、どうしたって、先生に弾いていただかなくては」 「いいとも。まにあうよ。いや、あわせるさ。良の、さいごの滝俊介マネージの仕事になるかもしれないんだから」  滝の顔がぴくりと動いた。しかし彼は何もいわずに、ポケットに手をつっこみ、スイッチ・ナイフの感触をたしかめて、落着きを取り戻した。 「いいでしょう。野球は九回二死から──お忘れにならんで下さいよ。代打満塁逆転サヨナラ・ホーマーって奴はけっこうあるんですよ」 「楽しみにさせて貰うよ」  佐野が戻ってきたので、二人は親しげに笑いかわしながらのことばを中断した。もしあのとき、何とでも云っていろ、あんたは何も知らないのだと、ここにあるこのナイフで、おれはあんたの奪おうとするおれの宝物を守りとおしてやれるのだと心中に呟くことができなかったら、あんなに我ながら落着いた応対ができたかどうかは、わかったものではないと滝は考え、同時に、いかにも平静ではあったが内心では結城でさえ彼の態度にいささかの不安ぐらいは感じたにちがいないと思うと、実に満足だった。 (代打満塁逆転サヨナラ・ホーマー──そいつをおれは、ここに持って歩いてるんだ。いつでも、好きなときに使えるんだ)  その恐ろしい考えに、彼はとりつかれたようになっていた。もとから敗けっぷりのいいタイプの男だとは思わないし、どうしても敗けねばならぬとなったら、その敗けをそれでもなんとかして勝ちとすりかえてやるまでだ。結城はまだおれを甘く見ているのだと滝は思った。結城は、彼がそこまでするとは思うまい。まだ二分か三分くらいは、滝の平静さやゲームを楽しんでいるようなようすに欺されて、ビジネス上の問題であるように考えている。  滝がほんとうに良を愛しているのだと、残り七分で承知してはいても、本来がそういう全存在を賭けたような恋のしかたをしない結城には、まさか彼の感情がそこまで切羽つまっていようとは悟れないのにちがいなかった。  考えてみれば、ひとは誰ひとり、何がおれの本性なのか、どこからがほんとうの本音なのか、はっきり知ってはいないわけだ、と滝は考えた。  彼はあまりにも、二枚舌の、本音を出さぬ、したたかな悪党で権謀術策を何より好む人間として通用しすぎてきた。いまでは結城であろうとなかろうと、たとえ滝がこの上なく率直に良に恋していると誓ったところでにやにやとうなずくだろうし、彼が笑いながら実はいま良を殺してきたと云ったところで半ば信じてしまうかもしれない。むしろそれはおれが自ら好んで招いたことだと云っていいが、と滝は思った。  誰も信じない人間は誰からも信じて貰えない。剣をとるものは、剣によって滅ぶのだ。 (同時にだがそれは、おれの恋仇どのにもあてはまることなんだが)  結城というものを、ようやく滝はいくらか根強い始末におえない好意と憧憬ぬきで眺められるようになっていた。  公平に見てあらゆる点で非の打ちどころのない男であるのはたしかだし、依然として、どうしても憎みさげすむことができないのだが、しかし、この敗北という高い代償をはらって、ようやく結城のアキレスのかかとを見出せたと彼は考えていた。  はじめから、結城に好意を寄せるあまりに、結城修二では太刀打のしようがない、敵にしたくない、良にふさわしすぎる、そう思いこんでいたために、判断力が鈍り、後手後手としか動けなかった。  むしろ自分の理想像を失いたくない奇怪な心の動きから、ことさらに先手をとって攻勢に出ることができず、自虐的に自分を追いつめ、追いこんでいくようなところがたしかにあったと思う。 (だがようやくおれはわかった。あのひとは、やはりお坊ちゃんなんだ。よかれあしかれ、卑しい苦労とは縁のない人なんだってことだ)  結城にはおれのような愛し方はできない、だからそういうふうに愛する人間の心をおしはかることもできないのだと滝は思った。  こんな云い方をしてよければ、結城はあまりにも結城修二でありすぎるのだ。彼には、たとえその恋に一点のいつわりも曇りもないにしたところで、良を彼の全存在のすべてとし、神とし、崇拝しひざまずくことはできまい。そういう恋はできまい。  結城が良のために生命を賭けられるとしたところで、そうなのだ。彼には、仕事があり、若々しい理想と情熱があり、彼の愛している──良のほかにも愛しているさまざまな美しいもの、音楽やうまい酒やいろいろなよいものがある。それらのために結城は生を愛し、生を愛するからこそ良を愛したのだ。  彼の若い仲間たち、かれらとの楽しい夜、夢と野心、友人たち、そして彼にとって誇りである彼の名声と自負。ヨット、車、旅、そしていくらかは、彼の、財界の大立物である父、別れた愛人たち。  たしかに結城は生を愛していると思う。そして滝は突然、どうして自分がこんなにもその美貌で恵まれた恋仇にあたたかな思いを寄せているのか、そのわけを悟った。  結城は生きることを愛している。この上なく愛し、美酒のように味わい、その苦みをも|おり《ヽヽ》をも同様に味わっている。その彼の生への愛が太陽の光となって放射してきて、彼のまわりにいるものによろこびを与えるのだ。  結城を見ているのはよろこびだった。彼は陽光とともに生きている。生におしみなく与え、そして生からも受け取ろうとしている。生に、それゆえ愛に、彼は豊かだった。  そんな人間はそうはいるものではない。ひとびとの多くは、むしろただ生かされているにすぎないし、それどころか自分が生きていることにすら気づかないのだ。  滝は自らを考えてみ、そして、おれは決して生きていることが好きではないのだ、と気づいて愕然とした。  仕事への欲望、野心、さまざまな愛するものはある。女たちと楽しみもした。にもかかわらず、それらすべてのことは彼にとって、結城にとってのようには重要で生き生きとしたことたり得なかったのだ。滝は生きることをそんなにいいこととは思っていなかった。彼の魂は疲れて、暗かった。  だからこそ、と滝は思った。そんなおれに陽光をおしみなくまわりに注いでいる結城修二がまぶしく羨しかったのだし、だからこそ良というものを見出したとき、他の一切をふりすてて、生命のかわりに良で自分を満たしてしまうようなのめりこみ方をしたのだ。  良を、その少年が受けとめかねるほどに切なく、深く愛することで、彼ははじめて生きた。彼には他のなにものも眼中になかった。もともと他のことはいわば彼にとってはあいている場所を埋めるためのまにあわせにすぎなかった。やるからにはちゃんと、いっぱしにやろうと思っただけだ。  そこに良があらわれて、彼に火をつけた。火はあっという間に燃えひろがり、みるみる彼をうずめつくしてしまった。いまでは彼はひとつの白熱した野火、どうにも消しとめることのできない、自分でも制御のできぬ火にすぎないのだ。  しかし結城はそうでもない。結城は彼から陽光をわけ与えられる人間を、生かし、ぬくもらせるふしぎな力がある。それは彼が豊かで、生を愛し、おしみなく愛しているからだが、それゆえにまた彼は生からも愛され、与えられているのだ。  おれはあの男を好きだ、とあらためて滝は痛切に感じた。結城は、彼の持っていないすべてを持っている。  結城なら、と滝は思った。結城なら良を幸福にできる。おそらく結城だけが──それとも結城ですら良の中の黒い餓えた魔物に克つことはできぬだろうか?  良は可哀そうな子なのだ。良は、当然受けて育つべきときに愛という陽光であり水であるものを与えられなかったゆえに、憎しみと侮蔑と拒否とによって培養されてしまった、不幸な花だ。その結果として、良はむさぼることだけを知って与えることをついに知らない。  結城なら良に、愛することを教えられるだろうか。しかしそうでなくても少なくとも彼は、良をそのあふれる陽光の中にぬくもらせ、ふんだんにむさぼらせることはできる。そして彼は、そうすることによって良に彼を愛すること、美しいもの、よいものを愛すること、生を愛することを教えられると自信を持っているのだ。  それが正しいのか、滝には知るすべもないし、また良の持っている恐ろしい深淵について彼なりのちがった考えをも持っているけれども、それでも結城のそばにいることで滝といるよりもどんなにか良が幸福であろうとは認めざるを得ない。おそらく結城でできなかったら他のどんな人間にも良を幸福にすることはできないと断言していいだろう。 (だが──おれはいやだ。そんなことは赦せない。おれのいないところで、おれの与えることのできない幸福を彼が良に与えられると考えるだけでもいやだ。おれは悪魔かもしれない──だがそれがどうだというのだ。おれが気狂いなら気狂いでいい。良は可哀そうだ。しかしおれには我慢できない)  もはや彼自身にも、彼の火は、制御できる段階をこえてしまっているからには、動かされるままにふるまうよりしかたがないのだ。  結城も好きだ。良も愛している──だがそうであればあるだけ、その美しい男神とナルシスとを、ふたりの幸福なエデンへ行かせるわけにはいかない。自らにも苦痛でならぬその決意の中に、滝のすべての想いがひそんでいた。 (おれをすてるなら良を殺そう。まんまと逃げ去ろうったって、そうはいかない。おれは良を、地獄の底まででもひきずりこんでやる。抱きしめて、はなさない)  良を殺そう──そう思いつめてから、これがさいごだというひそかな悲しい熱情をこめてその姿を追う滝の目には、いよいよ美しく、はなすことのできぬいとおしいものとして良が映じてきている。彼は、良のどんな表情でも、どんな魅力でもくまなく目に灼きつけておこうとして、良の姿をむさぼった。むさぼってもむさぼっても飽き足りなかった。 (良──おれの良……こんなに美しかっただろうか)  こんなにすきとおるような肌をし、形のよい唇を持ち、睫毛が長かったろうか。みがかれぬダイヤの原石の中に輝かしい予兆のような美をよみとって以来、ずっと良の美、その魅惑だけを追いもとめてきた滝であったが、その滝にすら、こんなにも良が美しく思われたことはかつてなかった。遠くない、むざんな死のヴェールをかぶせてみるためなのか。この世のものではない、あってはならぬ、という心持さえ起こってくる。  歌う良、ファンに取り囲まれている良、笑う良、黙って見つめかえす良、結城を見あげて目を輝かせる良、結城と寄りそう良を、滝は目で飲みこもうとするように見つめつづけた。 (良の歌手としての人気もおそらくはいまがピークだ。それに良の美しさも──もう十九だ。二十五になっても、三十になっても、それは良は美しいだろうが、もうそうなれば、いまの良の美しさとはちがう。うまくファンをついて来させられるかどうかわからない。ましておれがはなれてしまえば──)  これは自惚ではない。長い経験が教える、ひとつの方程式にすぎない。結城がなんと云おうと、滝は良の本質を知っていると確信していた。それは断じて、結城の夢見ているような、ロックの旗手といった方向へ進むのに適したものではない。  十代で、少女たちを熱狂させる美少年のアイドル歌手で売り出した連中は、ひとりの例外もなく二十歳前後でひとつの試練にさしかかる。そのまま生き残れるか、つかのまの「時分の花」としてすたれてゆくか、その岐路は一にかかって、周囲がその本質を見抜き、ただ美少年とめでて事済まなくなったときにどのように売ってゆくかによるのだ。  男っぽさにイメージ・チェンジするもの、歌唱力を前面に出してくるもの、稀には長谷川長次郎のように二十五、六はおろか三十、四十までも、美少年、美青年、永遠の二枚目の幻影に年齢がなんのさわりにもならぬような売りかたのできるもの。  良ならそれが可能だと、滝は花もまだ蕾のうちから早くもひそかな心づもりをしていたのだったが、いっぽう、少年とは呼び難くなった良にもそれはそれでちがう美しさもあろう、なまめかしさもあろうとは確信していながらも、その良を見たくない、見るのが怖い、この青々しくたおやかな少年の春のままに良を時の侵食の及ばぬところへ隠してしまいたい、という、妖しい、悲しい夢をも見ずにはいられないのだ。  そうするのはおれの権利のはずだ、と滝は、結城に寄りそわれて車からおりたつ良、彼に無関心なうるさそうな視線をかえす良を暗く燃える目でサングラスのかげから見守りながら思うのだった。 (良はおれの作品なのだ。作品に最高のエンディングをつけるのは作ったものの権利というより、義務のはずじゃないか)  おそらく、すでに自分は完全に狂っているのだろうと滝は思う。しかし、そんなことはもう問題ではない。彼の目は、瞬時といえども良からはなれ、良以外のものを見ていることをいやがった。  はじめから、彼の中にひそんでいた気むずかしい耽美主義者の心に良はすみずみまでぴったりとかなっていて、そのほっそりして、優美で、しかも一種の野性味すら感じさせる炎のような生命力を失わない若い肢体や、かぎりなく繊細すぎて狂気の感じさえ漂わせる完璧な目鼻立ち、その上にうかぶ異様にくっきりと印象的な表情のすべてを見ることは滝にとって比べようのないよろこびだった。  遠からず、この美神、彼の偶像を葬ると決意したいまとなっては、そのよろこびは、渇望をとおりこして中毒の禁断症状さえひき起こすものと化している。  あまりにも、滝はそうして自らの苦しみに入りこみ、溺れきっていたので、ときどき夢幻の境にある病人が熱にうかされた悪夢からさめて、時の歩みののろさ、また思いがけなく消えてしまう時の早さにともにびっくりするように、ふっと水のような静けさに見舞われたときなど、彼は自分が事情を知らぬものの目からは何ひとつ変りもないとしか思えぬような無感覚な平静さで、機械的に彼の手馴れた仕事をつづけているのを知ってひどく驚かされるのだった。  それというのも、彼の内面にはたえまない禁断症状の苦悶と拷問にひとしい陶酔、荒々しい決意とくずおれそうな絶望と気狂いじみた希望、絶望的な歓喜までもが交錯し、彼をかきまわし、云ってみれば四六時中の大嵐、という状態だったからである。  だが気がつくと彼は、目ではひっきりなしに良を追い求めるか、その場にいないときはどこで何をしているということをまざまざと想像し、その画面を眺めつづけながらも、落着いた物腰で、何もかもわきまえきって指示に自信をもっている者の口ぶりで付人たちだの、ディレクターだの、販売部長だのと分裂人格のように仕事をつづけているのだった。 「──ああ、それで結構。この前云ったことを忘れんでくれよ。それから午後のインタビューは開始を一時間のばすと伝えといてくれないか。いや、いいよ、そう云えばわかるはずだから」 「四月三日から五日間、マチネ一日、それで結構です。いや、ジョーカーズがついてくれると思いますよ。え? ああ、そのことは電話じゃなんですから──ええ、はあ、はあ──じゃ、明後日にでもお宅の方へ伺いますから、そういうことで」 「え、何? ああ、きこえたよ。白? だめだめ。効果さんにきいてごらん、だめって云うに決まってるから。わからん連中だな──いいよ、いま行って見てやるよ」 「はい、伺っています──成程。はあ……そりゃどうも。いや、実売数です。ほんとうですよ。お宅相手にかけねなんかしたってはじまらんじゃないですか」  そうしてマネージの仕事をつづけながら、実のところ彼は何ひとつきいていなかったし、見ていなかったと云ってもいい。しかし皮肉なもので、かえってその方が業務は順調にいっているぐらいだった。  フロア・ショー、ビデオどり、ワンマン・ショー、企画、人選、交渉、経理、雑務、サイン会にインタビュー、かつてはそれらの同じ仕事を、ひとつひとつ、あふれるような情熱と精力をもってこなしていったものだ。  だがあれは這い上ってゆく過程の、一歩でも息を抜けない緊張感に支えられていたときだった。いまは、良は、押しも押されもせぬトップ歌手のひとりだ。レコードを出せば必ずベストテン入りするし、ショーを開けば必ず行列ができる。TV局の前にはグルーピーがむらがり、仕事をとるのも選ぶのはこっちだ。  大賞もとったし、リサイタルも成功がつづいた。良にも、滝にも、何かはじめの緊張と不安は失われ、かわってひとつまちがえば気のゆるみにつながる安定感がそなわってきた。山はもうのぼられてしまったのだ。  これまでの滝であったら、自分の仕事はここまでと、さっと身をひいて、若手の同僚に完成品に仕上がった歌手をまかせ、彼自身はまた新たに仕上げるべき未完の素材を求めて巷へ出てゆくところである。  しかし、むろんもうそんな気は一切失せていたし、その上に、かつて抱いていた巨大な野望、これこそは生涯かける価値のある原石であるから、これまでにたくわえたあらゆる技術をそそいで良を、日本の、いや世界のスーパースターにまで光り輝かせてやろうという夢も、実のところ清新な推進力を失って立ち消えていたのだ。  彼はいまの良に満足で、その良をうっとりと見つめていたいあまりに、野望にたえず燃料を与え、新しい目標をより遠く、より高くへかざすことをおこたりはじめていた。ひとことでいえば、彼はあまりにも良のそのものを愛しすぎるようになってきていたのである。 「──では今夜のすばらしいスペシャル・ゲストをご紹介しましょう。すてきなすてきな、ジョニー!」  軽薄な司会者のわめき声、ファンの嬌声、ライトの中でうっとりとほほえむ良、マイクをつかむ良、どことなくつまらなそうに司会者にいいかげんなことばをかえす美しい少年を眺めるとき、これはおれの作品だ、という思いにひたって、彼はすでにひとつの生み出されおわってしまったもの、完結してしまったものとして良を見ているのだった。  彼は良のすべての表情、すべての魅力を知っていた。そのどれをも狂おしく愛し、何度見ても飽くことなくむさぼり、ひとつの表情からひとつの表情へうつり変るとき、消え去る表情をおしみ、あらわれる魅力を賞讃してやまなかったが、それにしてもそれらはすでに発見されたものの美しい反復で、それらに打たれ、目を奪われながら見出していった最初の感動はうつろわれていた。結城の影をその上に及ぼして、自分のものでないものとしてそれらを新しく見させられるのは、耐えられないことだった。  すべてがおれを定められた運命へみちびくのだ、と滝は脈絡を失い、奇妙なくらい神秘的な色あいさえ帯びてきた熱にうかされた思考の中で何度となくそうたしかめた。これが最後かもしれない、という思いで彼は貪欲に良との──というより良と結城とを見ている時間を味わった。  どこから考えはじめようとも──というのは、心の一部では彼も良を殺すことにほとんど本能的な畏怖、冒涜の恐怖を覚えつづけていたので、良を殺すという根強い決意に目がくらんでいる残りの半分の心の中では、ひっきりなしに打開策をさがし、何とか良を手もとにおいておく望みはないかとそればかり考えていたからだ──彼の思いは、ほんとうはもう自分が生きようと望んでいないのだ、ということを見出すばかりだった。  ほんとうは、結城が、彼に良のマネージをつづけることを許してくれたとしても、彼にはもう何の野心も仕事への欲望もなかった。機械的につづけているすべてのことに食事や呼吸と同様彼は興味を失い、やめたくてたまらなくなってきた。  そんなことはどうでもよかった。良が歌手として成功しようと失敗しようと!  それより彼は一瞬でも長く良を見つめていたかった。結城との確執も、すぐにでも勝利を、恐ろしい勝利をおさめられるのだと思えば取るに足らぬことだった。  彼は恐ろしくそっけなく、ひどく機械的に能率的になり、どことなく不吉な空気を漂わすようになり、一、二週間のあいだにげっそり痩せてしまった。  彼はもともと人に心を一切打ち明けないたちだったが、彼の機嫌を損ねると承知の上で隆も渡辺も杉田もそっとどうしたんですかとききはじめたし、デュークはもっと率直だった。長年のこの友人は、あっさりと、ジョニーとうまく行ってないんだねときいた。滝の、結城の≪処理≫に関する報告ははなはだ歯切れのわるいものだったし、そのあと事態は半月近くも何ひとつ進展を、よかれあしかれ見せてはいなかったので、デュークもいいかげん当惑して、たちのわるい冗談ではなかったかとすら疑いはじめたのだ。  そのどれにも滝は妙に上の空の愛想笑いで要領を得ないことをぶつぶつ云っただけだった。彼にとって重要なものだったさまざまなものへの欲望をひとつひとつなくしてゆき、いまでは良への欲望、良のそばにいて良を見ていたいという欲望だけがわずかに彼を生かしているような滝の状態にとって、友人たちも仲間たちも、影の世界の夢魔のような存在にすぎなかったのだ。良だけが実在していた。良と、そして良と共にいるゆえに結城だけが滝にとって現実だった。  彼の想像力はぎりぎりにとぎすまされて異常にはりつめ、結城の良を見守る目、良の結城を見あげるまなざしにからみつき、たえずその二人の裸身のからみあう姿を目の前にうかべた。  打合せや商談をしながらも彼はたえずポケットに手をつっこんでナイフにさわっているようになった。そのわずか一カ月のあいだに、滝は、これまで自分には縁がないと思っていた、愛と執着のあらゆる恐ろしいむくわれぬ半面をさまよい、苦悩のすべての盃を飲み尽し、灼き尽され、さいなみ尽された。  その一カ月をどうやってすごしたのだか、悪夢の中でどう生きのびていられたのか、あとから考えればまるきり想像もつかないような、そんなときが人間には誰しも一度は来なければならないのだ。  彼はたえず結城からの最終的な通告、破局のおとずれに怯え、恐れて暮した。一方では苦しさにたえかねてかえってそれを待ち望むような心にさえなった。きわめて散文的でしたたかな男であるはずの彼が、あらゆる≪悪事≫が露見して、衆目のただなかで裁かれる光景を想像して悪夢にうなされて夜中にとび起きた。  となりで良が静かに眠っている。幾夜、まだ良がそこに眠っているということが信じられぬ思いで見つめたことだろう。何も知らないでか、それともそのふりをしているのか、日ごろの態度にも別に変りのない良を見つめながら、みじめに石をもって追われる彼を嘲笑する、結城に守られた良が、どんなに生き生きと残忍に美しいことだろうとうっとり思い、それから、とんでもない、そんなことには決してならぬのだ、なぜならおれは良を殺して死んでやるのだから、と思い出して目を輝かせるのだった。  その思いがあるために、彼のような男でさえかつてなかったほど疑い深く、陰険な気持になり、誰かにその気持をつい洩らしてしまいはせぬか、かれらの間でひそかに進行している破局の予兆をかぎつけられていはせぬか、何かの噂が立ってはいぬかと恐れて、ほとんど病的な妄想に近い疑心暗鬼におちいった。  客観的には、その妄想のためにいよいよ彼はにこやかになり、落着きはらっていんぎん無礼になり、そのくせ仲間うちではひどくいらいらして、不機嫌になりやすいようにしか見えてはいなかったのだが、自分ではそうと思えなかった。  彼はめちゃめちゃにされてしまい、二度と元の自信たっぷりな滝俊介には戻れないという気がしていた。だが──良を殺すナイフを持ち歩き、これが最後かという思いをこめては良の姿を追い求めていたそのときほど狂おしくも純粋に、信仰にひとしい熱情をこめて良を愛したこともまた、なかったのだ。  そして、うつつない彼の思いをよそに三月もすぎていった。どんな責苦にもはてがあるように、どんな予兆もいつかは予兆でなくなる。きびしい冬はすぎ去った。苦悩のためにうつつなかった彼がふっと顔をあげて見まわしたとき、世界には彼の苦しみをよそに春が息吹いていた。  そしてついに彼の恐れが現実となり、彼にとっての世界のおわりがその全貌をあらわしたと思ったとき、滝は、あれだけその前に恐れまどうたにもかかわらず、或はむしろそれゆえにこそ、かえって虚脱してしまって、ほとんど驚きさえしなかったのである。       *  * 「それでは、僭越ながら、僕が音頭をとらして貰います」  結城の声は張りがあって、千人近い客たちでほとんど身動きもできぬほどに混雑したパレスサイド・ホテルの広大な「真珠の間」を圧してひびいていった。 「皆さんにグラスは行き渡りましたか。いいですね? では──『ラブ・シャッフル』の百五十万枚突破と、『別れのエチュード』発売を祝して、乾杯」 「乾杯」 「ジョニー、おめでとう」 『ラブ・シャッフル』の大ヒット記念と、新曲の発表会をかねた大パーティが行われたのは、四月のさいしょの日曜日のことだった。  はじめ滝たちの計画では、関係者に後援会関係、各界の名士などで、多くても七百人前後のつもりでいたのだが、名実ともに尾崎プロを背負って立つアイドル・スターに、寄ってくるものも多く、そこへ報道陣が加わって、千人という大盛況になった。  さしも広い「真珠の間」も、誰がどこにいるのかすら見わけられない。奥に、金屏風を背にして一座の主役たちが立っており、そこへひっきりなしに入れかわって挨拶する連中で、気の遠くなるような騒ぎだった。  良はこの日、このパーティのためにわざわざあつらえた、純白の、衿とゆったりした袖口と裾に長い白の羽根飾りをつけたスーツを着て、皆の目を奪った。薄化粧した顔が上気して、華麗な人形を思わせる。  渦巻く髪の中にまいた金粉がちらちら光り、ほっそりした手には、これ見よがしに大きな彫金の、風変りな指輪が輝いていた。それは、先刻乾杯のとき優雅にさしのべられた、良の傍からはなれない結城のグラスをつかんだ指にひときわ目立ったのと揃いである。  結城はサテンの衿をつけた黒いタキシードに純白のカラーが輝くばかりで、たえず良の肩に手をまわして、微笑したままの良のかわりにたえまない客たちの挨拶や祝詞を軽妙に受け答えし、まるで女王を補佐する美貌の夫君のように見えた。  屏風の前には作詞の中村滋、デューク尾崎夫妻、マルス・レコードの重役たちなどが盛装でかたまっていて、そこがこの大パーティの中心だった。  滝はそこにいなかった。乾杯のときだけはそこへ戻ったが、彼がこのパーティの進行主任である。準礼装の重いダブルの背広を気にしながら、屏風で隠されている横の出口から出てはひっきりなしに、裏方たちにあれをどうしろ、これをこうしろと指図を与えていた。それは彼にとっては、得意の仕事でもあったはずである。このような大きなパーティになればなるほど、かつての彼は、それをみごとに切りまわすことに誇りを感じたものだったから。  三百人も予定が狂ったのだから、ホテル側との打合せや折衝はいやというほどあった。しかし、見かけはたいしたそつもなくその困難な仕事をつづけながら、彼の内心は、決して平静ではなかった。  乾杯にさきだって、二、三の挨拶や祝辞があった折に、結城の述べたひとことが、彼をぎくりと刺していたのである。 (僕がいわばジョニーを預かって、その音楽面をまかせられてから、早いものでもうこの『ラブ・シャッフル』で三曲目になります。むろんその間にLP『ジョニー・ワールド』や、グランドプラザ・リサイタルをはじめ、たくさんのワンマン・ショーにもミュージカル・ディレクターとして参加して来ました。そしてこれははっきり云えますが、僕はその間ジョニーの中にひそんでいる音楽的な素質にいつも驚かされつづけでした。正直いってジョニーはいまのポップス界で最も歌唱力のある歌手というわけではない。まだ未熟で、稚いところがあります。しかし、ジョニーは決していわゆるアイドル歌手に終始して忘れられてゆくたぐいの歌い手でもない。ジョニーの例のジャリ・タレどもとちがうところは、ジョニーの中にまだ眠っている可能性にあると思う。どこまで僕がそれを発掘していっても、まだまだかれには伸びる余地がある。そして稚いなりに、未熟なりに、何か、人の心をつかむ何かは生まれながらにして持っている、恵まれた歌い手だと思う。僕はジョニーのそうしたところを高く評価し、ジョニーの大成のために僕のこの先の仕事を賭けてもいいとすら思っています。皆さんはいまにすこしびっくりなさることがあるかもしれません。しかし、何事につけても、僕はジョニーのため、かれの将来、かれの栄光のためによかれとだけ思って行動する、ということは信じていただいていいと思っております) 「滝さん! 滝さんてば」  腕をつつかれて、滝はぎょっとして我にかえった。隆が妙な顔で彼を見ていた。 「どうしたんですか。どっか、おかしいな。いつものマネじゃないみたいだ」 「何だったっけね」 「いやだなあ。TTCの『芸能ニュース』の中継車の人が、予定どおりでいいのかってきいてますよ。乾杯でもう三十分おくれが出てるでしょ。八時から新曲歌うのかって。会いますか」 「ちょっとタカちゃんが云っといてくれればいい。予定どおりでないとまずいのかな──ホテルの方は、なんとか一時間ぐらいならこのまま貸していてくれるって云うからそのつもりでくりのべるつもりでいたんだが、そっちが具合がわるけりゃ、予定かえて歌のあとでデュークの挨拶にするから」 「わかりました」 「杉チャンが心得てると思うよ、そっちの手筈は」 「じゃそう云って、きいてみますよ」  隆はうなずいて、かけだそうとして、ふと考え深い目で滝を眺めた。 「何か、あったんですか、マネ」 「何が?」 「いえ、ちょっとそんな気がしたもんだから──済いません、よけいなこと云って」  滝はまたしてもぎくりとしながら、酒やつまみを満載したワゴンをよけてボーイたちのあいだを縫うように、廊下をかけてゆく隆を見送った。  顔色が変りはしなかったか、血の気がひきはしなかったか、と気になる。心を静めながら、さっと横の入口から入って、人ごみの向うに、高い壇の上の晴れがましい一団を見やった。良がとても美しい、と思う。 (このごろ、どうして、奴がこんなにやたらときれいに見えるんだろう)  良が寄りそった雄神のような結城の背の高い姿を見あげて何か云う。結城が目を細めて答えた。なんという、互いにふさわしい、まぶしすぎる二人なのだろう、とその瞬間にかれらから発せられてかぐわしくその周囲をつつんだ、後光にも似た≪愛≫の誇らしさに圧倒され、陶酔にちかいいたみを覚えながら滝は思っていた。  彼の目はその美しい二人に吸いつけられ、苦しい思いをすることはわかっていながらどうしてもかれらのまわりをはなれようとはしない。  良はきれいで、またとなく冷艶に、周囲を妖しい輝きで呪縛していた。良のまわりでだけ空気の色がちがうようにすら思われた。白いふわふわした衿かざりから、すんなりとのびている、少女のような細い首、その上に、浮彫のカメオを思わせる小さな完璧な顔がある。  造作がこの上なく美しいのに、何か香りに欠けていたり、ものを云ったり表情を作ったりしたとたんに端正さがくずれてしまったりする美貌はあるものだが、良にかぎっては、どんな表情もそのひとつひとつがいよいよ鮮烈に、なまめかしく良の魅力を描きそえてゆくためにあるようだ。  彼は良に見飽きなかった。この世のおわるときまででも、飽きはすまい、むしろ、そのときまで他のすべてのものへの視力を失い、ただ良をだけ見つめていられたら、これにまさる幸福はないだろうと思う。  そして良もまた、熱い讃仰の視線、うっとりしたまなざし、熾烈な関心をこそ餌としていよいよみがかれ、美しくなってゆくまたとない妖しい生物であるのだ。まなざしや関心や愛はきりもなく良に吸い取られ、飲み尽され、なおも良を満たすことすらできない。純白につつまれた四肢の、なんというしなやかさ、そして優雅さだろう。それは、香りたかい若木のいかにも生命のあふれた華麗さであり、野性の若鹿のようなあらあらしい典雅さである。  良の美しさはすみからすみまで、きわめて贅沢なよりぬかれた素材でばかり成っていた。声を立てて笑い、手をふりまわし、たしなめられたのか眉をしかめ、額にしわを寄せて口をとがらし、結城のさしだすグラスをきゃしゃな手につかみ、無造作にもっていってぐっと飲む。  のけぞらせた咽喉がどきりとするほどになまめかしい。それはもともとすぐれた素材で成っていたにせよ、それをさらにひとつひとつすきとおって光を発しはじめるまでみがきぬかれ、ひとびとの驚嘆におしみなく洗われ、ついにひとつひとつの細部、表情、爪のさきに到るまでも、ひとびとの観賞と讃仰だけのための生き物に作り変えられた存在なのだ。  良は必ず勝利を得るようにと育てられてきたし、勝利を得てきたからこそつねにそれを得られる、また得つづけねばならない。このホールにむれている千人はいわば良のかちとった信者たちのそれぞれの代表たちなのである。  そんなことを思いめぐらしながら一瞬良をはなれてホールを見まわした滝の目が、ふいにサングラスの奥でぴかりと光った。いま良たちに祝辞をのべにちかづいてきたのは、ものすごい虹色のドレスに身をつつんだ白井みゆきと、それのパトロン然と従う、別れた二番目の夫のピアニストである。  みゆきは満面に笑みをうかべて大袈裟な身ぶりをしながら良の肩を抱いた。滝は苦笑した。彼女にとってはたしかに食欲を起こすのと、それが失われるのは日常茶飯である。もう良と佐伯とのことすら忘れているか、気にもしていないらしい。  最近ついに佐伯をおはらい箱にしてしまったらしいときいていた。もっともそのためには、彼を顔をきかせて何かの番組のCMボーイにしてやった上、小さな店が持てるぐらいの金はつけたらしいが。このようすでみればあとがまはもとの良人の内田だった。次の愛人ができれば、前の情人はどうでもいいみゆきである。  滝は鋭い目にみゆきの屈託のない笑いを見たとき、良のうしろに立った結城の美しい顔がびりっとして、手に持っていたグラスを一息であけてしまうのを見てとった。この異常で破廉恥な世界の中でひとり涼やかに|まとも《ヽヽヽ》な神経を保っているのも辛いことだ、とむしろやさしさをこめて滝は思った。そして、結城に目をうつし、あらためて、知るかぎり最も美しく、立派な男だとうっとりと眺めた。  黒いタキシードからあらわれている白いシャツの胸のきわだった広さがみごとで、ちょっとこの姿を見たら恥ずかしくて男という男はタキシードなぞ着るのはあきらめてしまうだろうと思う。  逞しい首、厚い肩、ひきしまった腰、長い脚、彫の深い美貌、男として一点の非の打ち所もない容姿である。一瞬きびしくなった表情を次の一瞬にはもう和らげて、酒のおかわりを受け取り、男でも惚れ惚れするようなあの太陽のような笑顔をむけて白井みゆきとそのよりを戻した愛人に何か愛想のいいことを云っている。  彼のしぐさは外人めいて表情が豊かである。長い腕をひょいとひろげてみせ、笑って良の肩を叩いた。そのまま掌をあげて良の渦巻く髪をそっと撫でる。  結城が良を見つめるたび、あるいはそうしたしぐさをするたびにはっきりとそこには誇りたかい禁色の恋をひとびとに挑むような雰囲気が漂ったが、その一対のうっとりするような美しさ、そして結城の高貴な誇りが感じとれるゆえに、誰ひとり、卑しさや倒錯や汚濁をかれらの恋の上に及ぼす勇気のあるものはいなかった。  たしかにそれは結城と良の恋の頂上をきわめた夜であったのだ。かれら、まばゆい恋人たちはそのホールを埋めた客たちの上にその恋をもって君臨していた。かれらの美しさゆえに客たちはみなかれらにひざまずいた。  良は長い睫毛をまばたいて甘えかかるように結城を見あげ、結城は誇らしげに良の世話をやいた。その刹那のかれらは互いさえいれば全世界にでも立ち向える、いや、進んで全世界に愛人を見せびらかしたい思いに酔っていたにちがいなかった。音楽のようにかれらの愛がたえずホールに漂い、流れていた。  滝は何もかも忘れて見とれていた。彼はいたみさえ感じなかった。この二人は互いにさだめられてある二人だ、という恋人たちの誇りをともに感じ、ともに酔った。  この瞬間、人いきれとざわめきに満たされたホールの中にいながら滝はたしかに永遠をかいまみた。愛している、と滝は思った。彼はかれらを一対として愛した。自らが結城修二と化して彼の美しいナルシスを愛し、彼自身が良に溶けこんでその生けるアポロンを慕っていると思った。  彼は苦悩もいたみも忘れた。それは彼がその苦悩にすっかりおおいつくされ、その苦悩それ自体に化してしまったためだったのだ。この苦しみは彼の生きてあるあかしだった。いたみのはてのむしろ陶然とした麻痺をもって、彼は、良がいかに美しく、結城がいかに太陽のように生命を四囲に輝かしくふり注ぎ、その二人がいかに似つかわしく切りはなしがたいかを理解した。  彼など、無にすぎなかった。  彼は同時に結城であり良でありたいと願った。えたいのしれぬ昂ぶりが彼のこの一カ月の苦闘に疲れはてた心をゆるやかに押し流した。  彼は二人の足もとにひざまずき、身を投げ、そのまま二人のために息絶えることができたらと望んだ。すべての自恃、彼をしてその神のような美しい二人に辛うじて立ち向わせていた彼自身のすべてが、なんという見すぼらしい、とるにたらぬ、みじめなささやかなものにすぎなかったのだろうと思った。  無意識に、彼はポケットに手を入れた。そこにはスイッチ・ナイフの手応えがあった。  麻薬中毒患者がつねに予備の分を持っていないと安心できぬように、彼は自らの正気を疑うこともとっくにやめて、つねにそれをいま着ている服のポケットに忍ばせていたのだ。これを取り出し、決意していたように良のあの美しい肉を切り裂くかわりに、いまここで自分の腹につきたてたらどうだろうと彼は考えた。  恐ろしい誘惑が彼を襲った。彼は喘ぐような吐息を洩らした。 (何を苦しむことがあるのだ。消えてしまえ、きさまなど、この世から消滅してしまえ。ここで死ねば、良はきさまから失われもしない、あの美しい恋人たちは両方ともおれを二度と忘れられまいから、望みどおり両方ともおれのものになるのだ。腹を切れ。きさまの神殿に、きさまの創り出した神像に、まずきさまのとるにたりないあわれなからだを、血と心臓を生贄に捧げるのだ。何もかもおわりにしてしまえ、早く、早く……)  彼は目に見えぬ巨大な手につかまれて思いどおりにされているような気がした。  広大なホールの中のすべての人間たちは凍りついた死せる立像にすぎなくなった。  良と結城だけが生きて、光を放って、皆を魔法で生かしていた。  おわらせてしまえ、と何かが命じた。彼はわなわな震え出した。  目の前が暗くかすんでゆき、ポケットの中の手に力が入り、舌には恐ろしい血の味がした。彼は自分のからだが立像と化してしまい、その中に閉じこめられて、出たくてたまらぬのに指一本動かせない、という気がした。  魔法をとく呪文はわかっていた。それはすでに彼の手の中にある。どうすればいいのかもわかりきっている。ただそれをいつやるか、だけだ。やってしまえばどんなに安らかな陶酔が彼をつつむだろう。  彼は殉教者だった。彼の神たちのために、生きたわが身を捧げ、とびおりようとする殉教者だった。  なぜ早く行わぬのか? と責められているような気が、彼はした。  よくもあの美しい神々に彼ごときものが立ち向えるとか、自分でどうこうできるなどという冒涜を自らに許せたものだと思った。彼の前からすべての現実が砕け散っていった。  そのとき、誰かが、彼の名を呼んだ。  すでにしばらくのあいだ呼びつづけていたらしい。その声は鋭い焦れったげなひびきを帯びていた。  彼はつき落とされたように目ざめ、泣きたいような腹立ちを感じながら、芸能ニュースの関係者からの連絡を伝える隆を見た。ことばの内容が腑に落ちてくるまでにまたしばらくかかった。 「──あ……ああ、わかった。良に云うよ」  ぼんやり答える滝を隆はどうかしているという目で見て、黙って身をひいた。滝は頭をふり、通りかかったボーイの持っていた盆からひとつ酒のグラスをとってぐっと飲み、いそいでホールの中をぬうようにして屏風の前まで行った。 「良、ちょっと」  良がすぐにまわりに目礼して壇をおりてくる。夢の中のように現実感を失いながら滝は中継車の都合で予定を変更してすぐに新曲の披露をやるからと伝えた。 「わかった。でもバンドどうするの、七時半に入りったって、まだ入ってないじゃない」 「それだが、どうだい、先生にピアノひいて貰ったら。もちろんあとでバンド入りでちゃんともう二、三曲歌ってさ。とにかくすぐに一回やってくれるわけにはいかないかっていうから。かってなことを云いやがるが、しかたないよ、あの局は三田さんの息がかかってるから」 「いいよ、ぼくはそれで。先生のピアノでいつもレッスンしてるんだしね」  良はあっさり云った。滝はふしぎな陶酔のような苦痛を覚えながら良を見つめ、うなずいて連絡に立とうとしたとき、良が彼を呼びとめた。廊下の入口は一瞬人がとだえていた。 「滝さん……」  呼んでおいて良が口ごもった。すでに滝は良の云うことを知った。わかってるよ、と彼は心中呟いた。良はぐいと頭をふって、彼をまっすぐ見た。 「こんなとこで──云うつもりじゃなかったんだけど……ぼく──うちを出て、いい?」 「──いいもわるいもないさ、良」  滝は静かに云いながら、恐れていた終末がついに具現したというのに少しも驚いても、目の前がまっくらにもなっていない自分をふしぎに思った。良は彼の心を読もうとするかのように上目づかいでのぞきこんだ。 「こんなこといって、怒ってる?──でもぼくももう何かと……つまり、自分の部屋が欲しくなったんだ。それにこのごろあんまり一緒にいるわけでもないし──ねえ、でも、ぼくのこと恩知らずだとか思わないでね。別になにも、別れるの、追い出すのってわけじゃない……」 「云いわけなんかせんでいいさ。お前の好きなようにしろ、お前はそうする権利があるんだよ、ジョニー」  そしておれもおれの好きなようにする──先刻までの妖しい没我もたちまち吹き散らされて、口に出さず滝はつけ足した。  自分の部屋が欲しいがきいて呆れる。結城の家へゆくのに十中十までまちがいないのだ。ひとりぐらしのできる少年ではない。  しかし身勝手な良の方は、恐る恐る持ち出したところ思いのほか滝の反応が冷たいとばかりに、急に眉をくもらせていた。 「ねえ……」  妙に不服そうに彼を見あげる。我儘者め、わるい小僧め、と滝はしみいるように思った。 「怒る?」 「別に……」  彼はそっけなく云った。 「怒ったってはじまらん、もう決めたんだろう」  それから、彼は、ふいに感情に敗けた。というより、自分に、そんなひとつだけの感傷を許す気になった。 「なあ、良、もう三年もたつんだな」  目をそらそうとしながら彼は自分にきかせたくないと思っているかのような低音で云った。 「いろんなことがあったが──良……ひとつだけ、きいてもいいだろう。どんな原因で出ていくのかは知らん、どうだっていい。お前の自由だ……だが、この三年、ずいぶん、お前に対してひどいこともしたし、よく考えればしてはいけないこともしたかもしれないが──良、お前、おれを少しでも、好きだったか? 恨んでないか? おれと暮して、楽しかったか? ──これっぽっちでも、出ていくのが辛いか……?」  ひとことひとことが口から出るたびに、彼は恥と苦痛にまみれてゆくような気がした。おれはこんな女々しいことばを、口が裂けたって云える人間ではなかったのだ、と思う。だが同時に、自らをしぼり出すようにして吐き出したそのすがりつくようなことばの中に、彼の切ない狂おしい希望のすべてさえもがこめられていた。  だがまた、答えをきくより早く、良の目の中に、滝は、その思いのむなしさを知っていた。  良の中には、そうしたひとの傷に香油をしたたらせたいとねがう思いやりよりは、ひとの傷と見ればおどりかかって爪をつっこむ残忍さがずっと強くひそんでいたのだ。情けを乞われたというだけの理由でそれを汚わしそうに拒む良だった。  良は、眉を寄せていぶかしげな、いとわしげな表情を作った。それからちらりといやなもののある微笑が、うすく口紅をぬったその口もとを歪めた。 「へえ! あなたらしくもないこというんだなあ」  良はほのかな嘲弄をにじませて云った。 「そんなことどうだって大したちがいはないじゃないの。ぼくとあなたは、どっちみち、友達でも兄弟でもなくて、商人と商品なんだもの。ぼくの気持なんか気にすることないじゃないの──でもききたいんなら云うけど、これでもうやたらにぶたれたり小突かれたりしないと思って、ぼく、ほっとしてるよ」  云うやいなや、怯えたような目がちらっと滝をうかがい、それから良はあわてて安全な結城の腕めがけて逃げていった。  滝は一瞬黙って化石したように立っていた。弱みを見つけたと思うとかさにかかるうちに、自ら制し得なくなってどんどん云いつのってしまう良の性格とは知っていても、良が憎かった。その残酷と驕慢を憎んだ。同時に魅せられた。  わるい、いいかげんな少年であるからこそ良の美には妖しい生命が通っていた。彼の愛と彼の憎悪とは切りはなしがたいシャム双生児、というより、もはや互いに結びあい融けあって、区別もかなわないひとつのものと化していた。  良、と彼は呻くようにその名を呼んでみた。その名はいまなお彼の口に灼けつくほどにも甘かった。  それから彼は魂のぬけがらのように、ロボットのように、動きまわり、新曲の演奏の準備をととのえた。  結城に連絡し、場所を作り、公の司会役をつとめている尾崎プロ所属の人気司会者に予定の変更を告げて貰う。  少し場所があけられ、用意してあったグランド・ピアノがおかれ、マイクの配置が直された。人々はざわざわしながらあとへさがり、中継のテレビ・カメラが前へ出た。マイクをテストし、照明を落させ、機械的に動きまわりながら、いったい自分は何をしているのだろうと彼はいぶかしんでいた。  世界がおわりになってもおれはつまらんプログラムを動かしつづけていくのか、と思うと、いたたまれぬほど自分への嫌悪にかられた。  そうするあいだに準備はととのっていた。結城が目もとにくしゃっと皺を寄せる笑顔を見せ、ピアノの前へいって腰をおろす。落着きと自信とが彼をその場の王者のように見せている。彼は良がマイクの高さを直して貰っているあいだに指をならすように美しいコードをかなでていた。自分の専門の楽器の前にかまえたプロフェッショナルだけの持つ楽々とした風格がいやが上にも彼をきわだって見せた。  彼はしずまった客たちにちょっと目をやり、それからピアノの横に立った良を見あげた。ふわりと庇護の翼の下につつみこむような目である。良は生真面目に彼を見つめてうなずいた。また、あの静かな炎に似た愛が二人を異次元の空間に閉ざしたのを人々は感じた。  結城の大きな美しい指が典雅に動き、前奏をかなでた。滝はすでに何度もレッスンできいていたし、ちゃんとオーケストラの伴奏つきでも暗譜するほどその新曲をきかされていた。しかし、その、良の曲としては珍しい哀愁に満ちたラブ・バラードが結城の鮮かなピアノにのせて流れ出したとき、彼は胸をしめつけられた。  年上のひとが、少年を愛し、いくども別れよう、忘れようと云っては、少年の涙に敗けてしまう、この美しい時をのばしてはいけないのにと云って泣く、あなたはいつか私をこえてゆくのにという、少年はそれに愛を誓いつつ、再び別れのエチュードにゆさぶられる、いっそ二人で湖に身を投げてみたら、という内容である。  それ自体は一般受けのするような平凡な歌詞に結城は、胸をえぐられるような素晴らしいメロディーをつけていた。彼は誰にも真似のできぬコードへの感覚を持っており、そのメロディー自体よりもそれにつけられるコードで曲は一度きいたら忘れられなくなった。  良の声は甘くかすれてのびていた。ひとびとは息をつめてきき入った。  間奏に入った結城はかつてジャズピアニストとして名声を得ようとしていたテクニックをフルに生かして、華麗なカデンツァをひびかせた。  そうしながら彼は頭をあげて良を見つめ、良は崇拝と慕情にひたむきな目をかえしてつと彼の傍に寄りそって、その肩に手をかけた。良は、巨大な岩に寄りそった一羽の白鳥のように見えた。  ふたたびなみいる人々は、(愛……)というあの哀しいまでに美しいしらべをきいた。何ものも入りこめぬ愛の宇宙が二人をつつみこんでいた。世界はその恋と美ゆえにこの二人の恋人たちを愛していた。  結城が合図して、良は二番にうつった。別れたくない、別れられない、愛するようにさだめられた二人なのに、なぜあなたは年を気にするのか、美しいあなたが、と良は歌っていた。別れのエチュードをくりかえすあなたがぼくは悲しい、と良は歌った。稚く息をつぐ音がマイクに入ったとき、哀しさが漂った。結城の目が再び良の目を求めた。そして良は、結城の目を見つめて歌いついだ。愛している、愛している、それだけしか云えない、何にもできない、でも愛している──  ふいに滝はそっと横の入口から出ていった。出たり入ったりして忙しげにしている彼を気にとめるものはいなかった。皆はひたすら陶然として歌に酔い、そして美しい良に酔い、美しい愛人たちに酔っていた。  滝は泳ぐような足どりで廊下をかけぬけた。誰かにいぶかしげに見られたかもしれない。  彼は何も見なかった。もうそれ以上一刻もいたたまれなかったのだ。麻痺させられていた苦痛はよみがえり、前に倍して彼を灼き尽していた。彼はもう何があってもあのホールで、良の歌をきき、二人のまきちらす愛の誇りやかな香気に耐えながらにこやかに采配をふっていることはできなかった。  走りながら彼はサングラスをむしりとった。涙で何も見えなくなっていたのだ。彼はどこをどう歩いているかも感じなかった。  人のいない、人から見られぬところへいきたかった。喪失感、すべておわりなのだという実感がはじめて彼にこみあげ、おおいつくしていた。まもなく、彼は足をとめた。ホテルの地下の駐車場にきていた。  車に乗ってこのままどこまでもつっ走るか、そのまま死のうか、と彼は思ったが、彼の四肢からはことごとく力が抜けていた。  彼は生まれてはじめて、打ちひしがれた涙を流していたのだ。彼は柱の陰にくずおれた。すべての制御を失って彼は激しく嗚咽した。 [#改ページ]     28  滝は、時間の感覚を失っていた。おさえきれぬ炎のような慟哭が内側からつきあげ、生まれてはじめて、滝は女のように手放しで涙にむせんでいるのだった。失われようとする心のために、ついにむくわれない愛のために。  少しでもこの男を知っているものだったら、きっと、目を疑い、これがあの滝俊介かとさえ信じかねただろう。  いまの滝はしぶとい商売人でも、したたかな男でもなかった。愛人に捨てられた男の手放しの愁嘆場を、我身に羞じているゆとりさえなかった。  良が失われる。永遠に、彼の手から逃れ去ってしまう。いつかは来るこのときだと自らにくりかえし云いきかせていたくせに、いざそれが逃れようのない現実としてあらわれてきたとき、滝は気づかざるを得なかった。  そんなことを、彼は信じていなかった。良が、彼の良が、ほんとうに彼のもとを去るときが来るなどと、一度でも本気で信じられたことはなかったのだ。  それはあまりにもあり得ないことだった。彼の世界が根本から崩壊してしまうようなことで、それゆえにこそ滝はそんなことを信じることはできなかったのだ。  もしここに、良がいたら、結城がいたら、その足もとに身を投げて、這いつくばって、靴を舐めて犬のように哀願しただろう。結城から良をひきはなすことなど夢にも考えない。かれらの奴隷としてその美しい愛人たちにどのように踏みにじられてもいい。ただ、そっと二人を見つめていられれば何物もいらない。  だが、良を失ってしまうこと、二度とその安らかな寝顔を夜明けにとなりのベッドに見ることもできず、良のかすれた甘いイントネーションで(滝さん?)と呼びかける声をきくこともできぬこと、それはひどすぎる。どんな罪だってそれほどひどい罰には値するはずがないのだ。  滝は手をついて身を支えていた柱に力まかせに頭を打ちつけた。いっそ砕けてしまえばよい。  激痛がふと彼の息をつまらせ、嗚咽をとめた。頭の上から、さざなみのように伝わってくる喝采を彼はきいた。ちょうど真上が、真珠の間の大ホールなのだ。  滝の目にありありと、あつい床を透すように、ホールの光景がうつって見えた。人々の喝采、さんざめき、ホールをどよもす口々の讃辞。 「ジョニー、素贈らしいよ」 「歌、曲、詞──三拍子そろって大ヒット疑いなしだ」 「素敵よ、良ちゃん」 「アンコールをぜひ」 「ジョニー、歌えよ」 「先生、会心作ですね」  ピアノの椅子をまわしてふりかえる、黒のタキシードの美丈夫のがっしりした肩に手をかけて、頬を染め、睫毛を伏せてほめことばを受ける純白のアイドル。  人々はその美しいしなやかな容姿と魔力をもった声に陶酔し、かれを海から来た天使とも呼ぶだろう。だれが、その冴えざえと冷たい瞳に残酷な猫のかぎろいを見、紅い唇に死の大天使の香気をかぐだろう。  結城が誇らしげに微笑に顔を輝かせて立ちあがる。良の肩に手をまわし、僕の得たこの美しい生き物を全世界も見るがいいと、≪恋≫という名のまぶしい立像さながらに胸を張って昂然と周囲を見まわす。  人々はこの世にも大胆な、世にも華麗な、世にもまばゆいアポロンとナルシスとに圧倒され、見惚れ、ただ吐息をつくばかりだ。かれらには無縁な世界、道徳もなく常識の糾弾もないただ美の力だけが君臨する異次元の消息に呪縛されて。  いったい誰が、そのあでやかにたがいの恋をふりまいて世界に香気と光とをはこぶ一対の生ける神々の足下に、みじめにも踏まれにじられて息絶えてゆこうとする虫どもになど気づこうか、目をとめようか? (良──良──良──おれの良……)  滝はもはや嗚咽も涸れてしまった胸に、鬼神ですら哀れをもよおすほどの悲痛な声をしぼってその名をくりかえした。  彼が見出した少年だった。彼がそのために賭けることではじめてひとのために生きることを知った少年だった。何人の男に抱かれようとも、そんなものよりももっと強く深い宿命の絆でもはやはなれがたく結ばれていると信じていた少年だった。 (良──お前は、おれをすてるのか。おれが破滅しようと、再起不能にまで打ちのめされようと、もうお前には何のかかわりもないことだというのか。お前はお前の手でおれの死刑執行の調印をおすことになっても、なんのいたみも感じない、いや、その手に自ら鞭をとっておれの屍を打つことだってできるというのか) (わかっていた。わかっていたんだ。お前は、そういう奴なのだ。お前という奴は──お前は、結城と行ってしまうのか。あのひとの腕の中へ、あのひとの光の中へ、良……お前は、先生を愛しているのか)  ひとを愛したりできる良であるとは、いまでさえ滝には信じることができなかった。しかし、良が結城の愛につつまれて、彼を慕い、我儘な子どものように身を寄せてゆくのは、良に可能な唯一の愛のかたちなのかもしれない。  結城に寄りそって立つ良、結城が守ってくれると安心しきっている良、結城がちかくからいなくなると、灯が消えたように自分をもてあまして拗ねてしまう良の可憐な哀しさ、結城が戻ってきて笑いながら肩に手をおき、髪をかきみだしてやるととたんに目にも表情にも鮮かな光がついて、嬉しさに匂い立つほどのなまめかしさを増してくる良の、彼にだけなついているライオンのようななんともいえないいじらしさ。  おれに死ねというのか、そうなんだな、良、と滝は呻くようにくりかえした。 (お前なしでこのおれが生きてゆけると思っているのか。他の男を愛しているお前でも、おれを平然と踏みにじるお前でも──良、お前は、おれの死刑執行の命令書に署名したんだぞ) (死刑執行) (死)  ふいに滝は顔をあげた。目がすわって異様な光に輝きはじめていた。 (殺す) (おれは、良がおれのもとを去ろうとする──そのときが、良の死ぬときだと決心していた。いまが、そのときなのだ) (いまがその時)  滝は呻いた。彼の涙はすっかりかわいていた。 (ナイフ──良の胸を)  彼は悪夢の底のように緩慢なしぐさで、ポケットからナイフを取り出した、機械的に、刃を出し、ぼんやりとした目で見つめる。すでに彼はそのただひとつの妄執にぬりこめられ、その考えが皮膚病のように彼をおおいつくし、彼はもはや彼自身ではなかった。苦痛も、愛も、憎悪もまた彼からぬぎすてられ、彼はすでに盲目な意志──意志それ自体にすぎなかった。 (時が来た。解放の時。終末の時) (洪水流れきたりてわが魂に及べり。われ深き泥沼のなかに沈めり。われ立つべきところもなし。われ深水におちいる。大水のわが上をあふれ過ぐ) (良は大広間にいる──愛人の腕に守られて。美しい良、悪魔のような良、残酷な天使) (生かしておいてはいけない) (──あの女を殺せ!) (サロメ)  滝は同じ緩慢な足どりで歩きはじめた。頭の中を白熱したものがつき抜けてゆく。すべてのあらがいをすて、おろかしくむなしい妄執それ自身と化し、いかなる理性にも耳を傾けずほろびの炎をえらぶことのなんという快さだろう。  もはや苦しみは去ったのだ。ただ彼はなすべきことと──そして安息に向って歩く。  手順が彼の頭の中をうず巻いた。ナイフは隠さねばならない。広間を取り巻くたくさんのひとびとに邪魔されずに聖なる祭壇に近寄るために。  信徒に見守られて立つ美しい立像。黒のタキシードのアポロンと、その腕の純白のナルシス。  滝はひとびとをかきわけてちか寄る。かなしい微笑が彼の顔を輝かせる。皇帝万歳《アヴエ・カエサル》! |我ら死せんとする者君に礼す《テ・モリテユリ・サルマタント》!  良は彼を見つめる。おお──死をもってお前の心をあがなうおれの愛に結城は勝てるのか。滝は良に連絡しようと手招きをする。それは何もふしぎなことではない、まだ彼は今西良のマネージャーなのだ。  良の高慢な、彼など人間とすら認めておらぬような、まぶしく美しい顔。おれの愛、おれの憎しみ──おれの宿命! 滝は良をひき寄せ、一挙動で──死の手に良を抱きしめる。ただ一度、エト・トゥ・ブルーテ!  白い胸、やわらかなチュールにつつまれた、良のなかでもとりわけてなまめかしい美しい、やさしい胸、赤い血のしみ、人々の悲鳴、騒擾! (先生! おれのこの愛に勝てるのか、見ていなさい──おれのこの……)  雲を踏む足どりで歩く彼の心の中にまざまざと、結城のいたましいひきゆがんだ顔がうつっていた。滝は狂おしく哄笑し、それからふとおれはあのひとに公平にせねばならぬ、と思った。 (そうだ。おれはいつもあの人が好きだった。正しくふるまわねば──良を刺してから、その血にぬれたナイフであのひとの胸を──あのひとを苦しませてはいけない。それからおれの胸)  滝は狂乱した目を宙にすえてかすかに笑った。結城は非常に力の強い、逞しい男だが、滝にもひとなみの|たっぱ《ヽヽヽ》はあるし、それに結城はふいをつかれるのだ。まず良の方に気をとられるだろう。 (あのひとを、苦しませちゃいけない。それもおれの愛だ──そうだ。あのひとに卑怯なことはしたくない。良だけをそうやって取りあげてはいけない。あのひとは良といるべきひとだ。良を愛するために生を享けた、良にふさわしい──)  純白のシャツの胸に真紅の花を咲かせたら、結城修二ほどの伊達男のためにはまたとない服喪の贈り物だ。黒いタキシード、美しい髭、真白なシャツ、蒼白な顔、そして鮮紅のアクセント。 (良とあのひととおれ──あの世でなら、あのひともおれが二人の足もとにいてそっと二人を見つめ愛していることをも許してくれよう。すべてがおさまるべきところへおさまる。それが何よりも、いい、正しい、あるべきことなのだ)  すべてを手早く、素早く、手ぎわよく運ばねばならぬ、と滝は再び手順を復習してみながら思った。 (邪魔させるものか。──おれは運命の手、かれらのたぐいまれな愛に美しい終曲をかなでるためにこの世に送られた使徒、おれの生──ただそのためにあった……)  滝はうつろな笑いを洩らした。手に、関節が白くなるほど握りしめているナイフのことも、自らが這うような、泥の中を泳ぐような足どりでじりじりと歩きつづけていることも彼の意識をすでに去っている。  彼の心と肉体は、まったく遊離してしまっていたのだ。それで、ふいに何かに足がつきあたり、手ひどくつんのめり、あやうく転倒するところではっと我にかえったときも、彼は夢からさめたように、瞬間自分がどこにいて、何を考えていたのかまったくわからなかった。 (あ……)  手は、転倒をふせごうとさしのべたはずみにいやというほど並んでいる車のどれかのバック・ミラーに打ちつけたらしい。そのいたみがようやく滝の意識をはっきりと取り戻させてきた。  彼は茫然とした目で周囲を見まわした。自分がなんでこんなところにいるのか、解せなかったのだ。無人の広大な地下駐車場。ひえびえとしたアスファルトの上に、かぶと虫の列のようにたくさんの車が主を待っている。白、黒、青、赤──種類もとりどりだが、人影はまったくない。  パーティはいまたけなわだし、時刻も中途半端なのだ。来るひとも、帰るひともないのだろう。 (おれは──座に耐えかねて、とにかく車にとびのって、どこか誰にも知られぬところへつっ走ってしまおうと思ったのか)  おれはそんなに弱くなっていたのか、と滝は苦く思った。だがもう大丈夫だ。おれの手にはナイフがある。そしておれはもうためらわない。 (車!)  ふいに滝の中で何かがはじけた。滝はすごいいきおいで頭をどやしつけられたような気がし、何が何だか、まだほとんど悟りもせずに自分の目が見ているものを見ていた。  それは、一台の美しい、大型の外車だった。  メルセデス・ベンツ! (結城修二の車)  歩き出そうとしていた滝の足がぴたりと根を生やしていた。口がからからにかわき、目をそれからもぎはなそうとするのだが、金縛りになったように彼の目、彼の足、彼の魂、彼の存在のすべてはそこに、その一点に呪縛されていた。 (結城のベンツ! 良を乗せて帰るのだ。主待ち顔の──恋人たちを運ぶ魔法の馬車、結城はかろやかにこの美しい車をあやつりながら、となりにすわった、ついにすっかり手に入れた美しい人形をそっとながめるのだ。良の頭が結城の肩の上にもたせかけられる。やわらかな髪の渦巻、贅沢なたいせつな重み、甘えるように結城の手を求める良の手、甘ったれて鼻づらをこすりつける子犬の獰猛な可愛らしさ。ベンツは走って、五日市街道を右に折れる、武蔵野の森、高級住宅地、静かな夜のなかを──軽快なエンジンの音、結城のアトリエ、ブレーキを踏み、とびおりてまわっていって可愛い王子を抱きおろしてやる前に、彼は手をのばして良の頭をかかえよせる。唇がかさなる──夜の底、かさなる影) (そのうち、良のベッドを買っていれなくちゃね)  結城の目がなごむ。やさしく、手に入れた愛人を見つめ、ほほえむ。いっときもはなれていたくない愛撫。 (良──) (ん?) (いいのか、ほんとうに、ここで暮らすので? もうずっと帰さないんだよ。衣装もみんなこっちに持ってきちゃうんだよ。滝さんのところへ帰りたくなるんじゃないか) (なんでそんなこと云うの先生! ぼくあのひとと一緒にいてずっとひどいめにあってたのに、わかってるでしょ?) (でも三年暮らしたひとだ。それに良はあのひとのところを『うち』と云ってるね。わかってたよ──これからここがうちになるんだよ、わかってるのか、良?) (あたりまえじゃない!) (僕のとなりで眠って、僕と話をして、僕と食事をするんだよ。ずっと、二年も三年も──十年も?) (先生、ぼくいつまでも先生のそばにいられる?) (良!) (ぼくを嫌いになんない? ぼくが──大人になっちゃっても、──売れなくなっちゃっても? ねえ?) (良、僕の良──おいで。うちに入るんだよ)  結城の力強い手が良の肩をしっかりつつむ。ふたりはもつれるようにして家に入っていき、結城があかりをつける。趣味のいい、高価な家具、快適で、力強く、かざりけがなく、高貴で、結城修二にそっくりな彼の部屋。  レコードの山、ピアノ、ステレオ、男性的な、どこからどこまで結城にぴったりと似合った室のなかに、白い脆い細工物、ぜいたくで美しい、役に立たぬ、それゆえにいよいよ心をそそる装飾品のようにちんまりとかけているほっそりした少年。  それを結城はあのつつみこみ、光を注ぎこむような目で見るだろう。それは婚礼の夜、誓いの夜、結城のような男がどうしてそれをないがしろにしよう。 (乾杯) (うん) (可愛い子だ)  結城の腕が、少年をかかえあげる。オレンジの花をまくのは、婚礼の寝台か、それとも──死の、服喪の部屋なのか? (良──守ってあげよう。もう誰にもふれさせない、どんな悲しい思いもさせない。良は僕のものだ。僕がお前を守る──僕を信じるね? 僕ははなれない、決してはなさない) (先生──) (ん? 何だ?) (滝さん──怒ってるんじゃない? ぼく……先生のとこへ来ちゃったけど……だってこれからもマネージャーはつづけるんでしょう。だったらぼく──やっぱりあの人に恩はあるんだし……) (良、きくんだ)  結城の真剣な顔。 (滝さんはね──あの人は、良とわかれて、別にまたスターの養成をするんだよ。それがあの人の仕事だ。良はもう大スターになってしまった。あの人には、これ以上することがないんだ。良──わかるか。まだきみにはわからない、いろんなことがこの世界にはある。良の頭はそういうことで汚したりよぶんな負担をかけさせたくない。いいか? 僕がいるよ。僕は、いつでも、良のためにいいようにとただそれだけ考えている。わかるか──だからきみは僕を信じてくれさえすればいい。僕はきみに決して悲しい思いはさせないよ) (先生) (きみは僕のできるかぎり、すべての幸せをあげたい。きみは可哀そうな赤ちゃんなのだから──僕からはなれるな、良──僕がここにいる。僕がきみを抱いているよ──もう、いつまでもいっしょだ。滝さんのことは心配するな。僕にまかせておきたまえ。いいね、良? 大好きだ。大好きだよ……)  接吻。百も、千も、万もの接吻と抱擁、接吻と抱擁、やさしいひそやかな囁き。肌のぬくもり、そして逞しい腕の中の夜──良は、目を閉じる。稚いいじらしい、魂の底まで無防備に、まかせきった表情で──良は、滝を忘れるだろう。安心に、守られ、愛され、大切にされて、良のうわついた心が滝を忘れるのに、ひと月とはかからぬだろう。そして滝は逐われ、ほろびてあるだろう。 (ベンツ──その日々へ、エデンの日々へ、先生と良とを運んでゆく、翼あるペガサス、広いかがやく道に走り去ろうとするお前。結城修二の愛車、おれのみじめなスカGのように、主を汚れた商取引の場へ運んだ記憶もなく、隠然たる勢力をもつ陰の大御所のところへ美しい人肉を切り売りするために走らされた過去もなく、愛され、誇りにされ、そして愛し愛された美しい神々のチャリオットとしてあまがけるぴかぴか光るお前──考えたことがあるか、お前は、いつかその素晴らしい主人を裏切ることになるかもしれないと? A級ライセンスの腕と特別念入りに整備させている大型の外車、結城修二はそのどちらをも自分の忠実な腹心にしている。夢にも、そのどちらかが裏切るかもしれぬなどと考えたことすらない。彼は自分もまた死のあぎとにたわむれる虫けらだなぞと、想像してみたことすらないのだ。結城はあまりにあふれるように、ほとばしるように生きている。生を愛し、生に愛されているのだ。ひとびとの心の中でも、結城自身の思いにも、結城修二ぐらい死から遠い、無縁なものはない。そしてお前、美しいベンツは、今夜もお前にふさわしいそのあるじを乗せて静かにひた走ろうと、今夜おれの血のしたたる心臓を生贄に捧げたその誇らしい神々のような恋人たちを、安らかに互いの恋のあつい臥床に送り届けようと待っている──想像さえ、したことがあるか、お前は? お前の美しいみがかれたボディが、そのまま死にむけて疾駆する棺桶になるかもしれないことを? 炎と暗黒が交錯し、お前の疾走はそのまま虚無にむけた還らざる夜になるかもしれないことを? どうなのだ──思ってみたことがあるか?) (美しい棺桶──恋人たちの棺桶、死への旅立ち) (ナイフよりもずっとかしこくて──現実的だ。ちかづくまに誰かがきらりときらめく刃の一閃を見てしまうかもしれない。うろたえた裏切者のおれの手が、あのおれの屠らねばならぬ生贄のあまりにまぶしい美しさに震え、おじけて、一撃でしとめるはずの急所をそらしてしまうかもしれない。とびかかったところで誰かに組みつかれて果たせぬかもしれない。結城の逞しい手が良を守ってしまうかもしれない──この方がいい) (武蔵野に帰るには、高速四号を通り、井の頭通りを抜けて五日市街道に入る──夜おそく、すいた道に、結城の腕だ。快調にとばすに決まっている。暗い道、高速、流れ去る灯) (ブレーキ) (苦しくはないさ。一瞬の驚き、恐怖、暗黒──すぐ済む……美しい二人が、こんな立派な棺桶で、死に向って疾駆する──天下のアイドル・スター、ジョニーこと今西良と、結城重工業の御曹子、ナンバーワンの売れっ子作曲家、結城修二ほどのふたりにふさわしい、劇的な終幕) (ひとびとはおれをなぐさめ、力づけようとするだろう。おれは黙ってうなだれ、連中を追いはらい──そのまままっすぐにスカGを走らせる) (後追い心中) (それもまたどうしてわるかないさ。こんなに思いやりの深いことはない、かれらは一緒に死ねるのだ。いったい何がどうしたのかさえ、おれの手を知ることさえできぬうちにふたりは死ぬ) (結城が良を抱きしめ、良は結城の胸に目をつぶってしがみつき、黒い地面がぐんぐんもりあがってくる) (幸福なふたり) (ブレーキ・ホース)  滝はのろのろとアスファルトに膝をついた。這いつくばり、ベンツの下側を手でさぐり、らちがあかぬのに苛立って、仰むけにもぐりこんだ。彼の手が求めるものをさがしあて、つかむ。たちまち滝の掌が機械油に汚れた。 (ブレーキ・ホース)  滝は目ざす箇所にナイフをあてた。渾身の力をこめてこすりつけると、きしきしと耳ざわりな音がひびいた。 (切れろ。切れるんだ)  すべての理性も意識も消えうせた。誰かに見られはせぬかとも、自らのしている行為の意味も滝は思わなかった。滝はただひとつの意志だった。神経をさか撫でするような音を立てて彼はナイフをのこぎりのようにごきごきとこすりつけるほか、何ひとつ見えずきこえなかった。  彼がのろのろと車の下から這い出して立ちあがったとき、彼の両手は油にべっとりと汚れていた。洗わねばならぬ、と滝は思った。真空よりも空白になった彼の心には、機械的にそのあとの行動がプログラミングされているのだ。手を洗う。きれいに洗い、服装をただし、どこにも油やほこりがついていないかをたしかめる。それからいそいでホールへ戻るのだ。あやしまれてはならない。  頭の芯に本来の滝は封じこまれ、かれと現実とのあいだにはあつい、白い膜がはりつめていた。先の行動を考えたり、そのとおりにのろのろと、だがとどこおりなくふるまっているのはその膜の外側の、滝の顔と能力だけを持った自動人形だった。すべてがおわった思いさえ、その非現実の膜の中に封じこめられた滝の魂からは去ってしまっていた。  彼はのろのろと駐車場を出、手を洗いにいった。動くにつれてしだいに動作がきびきびして来、的確さを取り戻した。彼は誰もおらぬのを見はからって、念入りに手洗いで手を洗い、においをかいでみて、もういちどすりむけるほど洗い直した。  服を点検し、鏡をのぞきこむ。薄色のサングラスをかけた、なめし革のように無表情な顔がうつっていて、何の感動もなく彼を見かえしてきた。  これがおれの顔だ、ということさえ彼は実感できなかった。見知らぬ、苦味走った、どうして男前の若くはない男の顔。殺人者のあかしも、魂を悪魔に売り渡したもののしるしもそこにはない。それはただの顔だった。人形よりも意味のない、魂のない顔。ほとんど、いま自分が何をしてきたかさえ、滝は忘れるところだった。  痴呆のように鏡の前に立っていたとき、ドアが押されて、誰かが入ってきた。反射的に滝は顔をそむけるようにして手洗いを出た。何か、恐ろしく重要でしかも急を要することを、しのこしたまま度忘れしてしまっているような気がしてしかたがない。  何人ものホテルのボーイだの、尾崎プロの下っぱだのが走りまわっている廊下をなかば無意識に人をよけ、ワゴンをよけてホールの方へ歩き出した滝の方に、誰かがとんできて肩を叩いた。 「やだなあ、どこへいってたんです、一体」  隆である。瞬間誰であったかといぶかしんだ滝は、機械的にうなずきかけた。隆はやきもきしているようだった。 「あ──便所か。失礼……でもね、さっきから結城先生がどうするのかきいてきてくれっておっしゃって気をもんでらっしゃるんですよ。さっきのあれ番外でしょう? もういっぺん、バンド揃ったところで予定どおりするのか、先生もそのとき出るのかどうかって。──滝さん? 顔色わるいんじゃないですか」  滝は何の意味もわからずこの隆の一気にまくしたてたことばをきき流し、同じく何の意味もわからずに、自動人形に占領されてしまった自分が隆に重い口で答えるのをきいていた。 「なんでもないよ。少し気分がわるくってね──ここんとこ、いろいろ過労で、胃が弱ってたんだろう」 「なら、いいけど」 「心配せんでいいよ」 「で、どうするんです? 何て、云っときましょう」 「何だっけ……?」 「やだなあ──先生がバンドつきで歌うときもお弾きになるのかどうかって話ですよ」 「いいさ、どうでも。予定では──どうだっけな」 「予定は伴奏、新曲だけってことだったけど、すごくさっきのうけてるんで、みんなやった方がいいんじゃないかって社長がね。先生はどっちでもかまわないそうですよ」 「じゃ、やっていただくよう云っといてくれ。あとでおれからもお願いするが、時間やなんか、うまくいってるのか?」 「万事、こんなもんでしょう」 「よし」 「皆さん、お喜びですよ。水野女史が着物にワインこぼしたって大騒ぎしてたけど、あとはみんな。大好評ですよ、『エチュード』」 「そうか、よかったな」  隆はふしぎそうにちらっと滝を見たが、ふと同情したように眉を寄せた。 「ねえ、そんなに気分わるいんだったら、どっかで休んでたらどうです? あとは杉田さんやナベさんとぼくらで、大丈夫ですよ。もう大事なことはみんな打合せ済みだから」 「かまわん」 「平気ですか、ほんとうに」 「かまわんよ、気にせんでくれ。少しじっとしてれば直るだろう」 「でも……」 「それより先生とバンドにそれを伝えてくれ」 「わかりました。滝さんは」 「あまり席をはずしてても何だから、ホールの方へ行っているよ」 「今日は、もう、飲まない方がいいですよ」 「わかってるさ」  滝はぼんやりした微笑を隆にむけながら、いま何事もないように隆とかわした会話が何のことだったのか、さっぱり心におちては来ないし、気にとめてさえいないのだった。  滝はそのままホールの入口に向って歩き出した。人に満ちあふれたホールにちかづくと、ひとびとのざわめきや談笑の声がさざなみのように滝に押し寄せて来、きらめくライトや飾りつけ、着飾った客たちのあふれるような色彩が七色に光るもやになって滝の前でゆれうごいた。 「あら、滝さん」 「おや、マネ、どこ行ってたんです」 「ま、一杯どう。忙しいねえ、あんたも」 「この人あってのジョニーだからねえ」 「滝チャン、いいじゃないのォ、ジョニーの新曲」 「あ、滝さん、いいとこで会った。ちょっと紹介さしてほしい人がいるんです。この人、沢村君、いい詩、書くんですよォ。まだ若いんだけど、センスがとてもあかぬけててねえ。どうでしょう、あの──ひとつジョニーのこんどのLPにでも一曲か二曲書かせてやってくれないかなあ。うん、おおいに目をつけてるわけよ」 「よろしくお願いします」 「いやだ、多田センセ、こんなとこでそんなヤボなお話およしあそばせよ。ねえ、滝チャン、こっちいらっしゃいよ。こないだ良ちゃんと六本木でばったり会ったのよ、そしたらねえ」 「済みません、ちょっと用がありまして、どうも」 「あら冷たい、滝チャンてば、まあこれだけ飲んでいきなさいよってのに」 「だめなんですよ、胃がね」 「働きすぎですよ、働きすぎ」 「あーあー、この人はね」 「良ちゃん、きれいですねえ、滝マネージャー」  光のめくるめく渦、さんざめき、人いきれ──押しのけるようにし、汗びっしょりになって人波をわけてちかづいていきながら、しかし滝の目にはただひとつのものしか見えず、意識されていなかった。  一段高くなったステージ。うしろのアコーディオン・カーテンを金屏風で隠し、ピアノとマイクの脇からはなれて賑やかなさんざめきのひときわ華やいだ輪の中心に、白く輝いている姿。この世の中心、この世界に生命と光とを与えているもの。からだにまとわりつくやわらかな白い袖、匂いやかな微笑。そのかたわらによりそう雄々しいアポロ。  これで最後なのだ、という思いをこめて彼のなかの虚無は輝かしいふたりの恋人たちの姿をむさぼり、吸い尽そうとしているのだった。  そのことに彼自身はほとんど気づいてはいなかった。ただ、良が美しくまぶしい。結城修二がまぶしい。なんと美しいのだろう、と切なく遠く憧れをこめて見守る。光の美しさはそのうしろに音もなくひろがる闇によってこそひときわまばゆく、これでさいごの思いがひそんでいればこそ切ない憧憬は耐えがたいやるせなさで彼の胸に迫る。  滝には、滝の目、だけには、二人を呑みこもうとしている黒い終焉が見える。それはほかならぬ彼、ときはなたれた悪霊がもたらしたのだ。 「滝さん、お伝えしておきましたよ」  隆に再びはっとさせられるまで、滝はなかば自失してうっとりと良を見つめていた。 「どうしたんですか。やっぱり気持わるいんですか? ほんとうに、休まなくて平気ですか。あとぼくらでやれますよ」 「あれ、隆くん、マネがどうかしたの」 「あ、佐野さん、滝さん胃が変なんですって。どうも気分がよくないらしくて」 「隆」 「いや、滝チャン、そういやさっきから、何だか顔色わるいと思ってたんだよ。ちょっと元気ないみたいだしさあ──大丈夫なの?」 「大丈夫ですよ。隆、つまらんこと云うなよ、皆さん心配なさるじゃないか。せっかくの祝いごとの席だ」 「つまらん気兼ね、しなさんな。からだ大切にしてくれなくちゃあ、困りますよ。なんたって、滝チャンあってのジョニーなんだからねえ。この曲も百万の大台はまあ、楽勝と見ていいしね」 「滝さん、向うの控室で休んでたらどうですか」 「いい、放っといてくれ」 「でも」 「隆、少ししつこいよ。おれならどうしようもなくなったら自分で休みにいくよ。せっかくのパーティにつまらんこと云ってないで、お前も少しは羽根のばしてきたらどうかね」 「そうですか──でも」 「佐野さんも、ちょっと失礼します。ちょっと、結城先生と打合せの確認をしますんで」  滝はそうそうにそこをはなれた。ようやくホールを横切って今日の主人公たちのまわりの人垣にもぐりこむ。 「済みません、ちょっと」 「ああ、滝チャン、どこ行ってたのあんた」 「結城先生は」  いままでそこにいた結城の姿がなかった。デュークと北川女史やデューク夫人に囲まれて何か声をあげて笑っていた良が声をきいてふりむいた。 「ああ、滝さん」 「楽しそうだね」  滝はぼんやり笑いかけた。良は冷やかな微笑をうかべて露骨にうるさげに彼を見かえした。 「何、何か用?」 「結城先生は? あとのプログラムのことだが」 「いま」  良はあいまいに出口の方を顎で示した。 「お電話がかかってきてね」  デューク夫人で副社長のマーサがとりなすようにつけくわえた。 「裕ちゃんのことだそうよ」 「白崎さんですか」 「あの先生もお忙しいから」 「たったいまよ。ほんとの一足ちがいね」 「戻って来たらぼく伝えとくよ、なに?」 「いや──あとでまたお前が新曲バンドつきで歌うとき、やっぱり全部先生にも弾いていただこうというんでね」 「それがいいわよ、素敵だもの、先生のピアノ」 「歌もはえるしね」 「でもそれさっきタカシが云いにきたけどね」  また何をうるさく、という顔を良はした。デュークが滝をちらっと見た。 「でもさ、滝チャン、あれじゃないの、予定は何と何っつってたかね」 「『別れのエチュード』、『ラブ・シャッフル』、それに『裏切りのテーマ』ですがね」 「それだけど、前の二つは先生の曲だから打合せなしでかまわんだろうけど、『裏切りのテーマ』はどうなの、あれ山下先生の──」 「それで楽譜のことでお話があるんですよ。結城先生のピアノなのに、ただのコード伴奏じゃ勿体ないですからね。間奏にソロをとっていただこうと思って、もしよかったらバンドと打合せていただこうと思いましてね。先生はジャズ畑でしょう、コードがあればアドリブでいけると思うんだが、デューク」 「そりゃいいが、大丈夫かね、こう急で──それにあれなの、バンドのピアノの方は」 「大石さんのバンドだから大丈夫ですよ。間奏に矢代チャンのテナーがフィーチュアされてるのを、先生のピアノにかえようってわけです」 「やっぱり先生にちゃんとオーケーを貰ってからの方がいいな」 「大丈夫だよ、先生なら」  良がぱっと口をはさんだ。自分のことのように誇らしげに顔を輝かせている。 「先生のピアノで何回も『テーマ』レッスンしたもの。先生のピアノは木口正章にだって敗けやしないよ。何やったって、先生は最高なんだから」  皆が思わず良を見つめた。良の顔はあどけないと云いたいくらい、心の底から英雄崇拝の誇らしさに輝いていた。思わず、みんなが微笑むと、良はむきになって一心な目でみんなを見まわした。 「わかったわかった」  甘やかすようにデュークが云う。 「そんなにむきにならなくていいんだよ。誰も、先生がやれないとか云うもんか」 「そうそう、先生のピアノは素敵だものね」 「やれやれ、あてられますなあ」 「それにしても──先生、なかなかだな」 「何時から演奏だったっけ?」 「最初の予定より約四十分遅れて、九時にはじめようと思いますが」 「じゃ支度急がなきゃ」 「わかりました。じゃ、ちょっと私の方から行ってみましょう」  滝はそそくさと良のわきをはなれた。無邪気な目で結城への崇拝の誇らしさをふりまく良のかたわらにいるのは辛かった。 (先生──) 「あ、滝さん、よかった」  廊下へ出るか出ないかに渡辺が息せき切ってとんできた。 「早く見つかって──ああ、疲れた」 「何、ナベちゃん」 「あのね、結城先生ちょっと急用で……」 「急用? なんの?」 「先生がディレクターをなさってるニューポップスの白崎さんね、あの人から電話だったんですよ。何でも突然、むこうのレーベルが契約違反だとか云いだしたんだそうです。よくはききませんでしたけど、なんとか登録がなんとかとちがうとかいって──で結城先生、まことに申しわけないけどいますぐちょっと出なければならない、って……」 「なんだって?」 「あっ、びっくりした。急にそんな、でっかい声出さんで下さいよ」 「さきに帰るってのか? こ──これからもう二十分なしで演奏だぞ」 「そりゃだめですよ滝さん。先生さっき特別に伴奏なすったんですもの。バンドだってわざわざ頼んだんだし──それに白崎さんのほうは先生の正式の仕事ですものね。先生とても力入れてるし──しょうがありませんよ。バンドのバックでいけますよ。先生なんとか一時間かそこいらで片付けて戻ってくるからジョニーにはうまく云っといてくれっておっしゃいました。知るとまた騒ぐし気にして可哀そうだから、ちょっと用があると云っておいてくれ、ちゃんと打ちあげまでに戻って乾杯の音頭とらして貰うって。ま、しかたないですよ。それでいいでしょ。それにしてもやっぱり先生、良ちゃんが可愛いんですねえ──ぼく何だかちょっと気の毒な気さえしましたよ、結城修二ともあろう人が、あんなに良ちゃんの機嫌を気にして、走りまわって、気をもんでね。なんかこっちの気がいたんで──あの分じゃスピード違反でふっとばしますよ先生。大丈夫かな、今夜相当酒入ってるみたいだから、一斉にでもひっかかっ……」 「ナベ!」  やにわに滝が怒鳴ったので、渡辺はぽかんとした。滝はその胸ぐらをつかんだ。 「た、滝さん……」 「ナベ──先生はどこだ。先生と話さなくちゃ──ちょっと先生に……行っちゃ困る……」  滝はほとんど自分が何を口走っているのかさえ意識していなかった。 「先生はどこだ! 早く云うんだ!」 「どこって──ガレージに行きましたよ……滝さんさがしてごそごそしたりしてると目立つから、それよりすーっと行ってすーっと戻ってくるって──いまごろもう車出してんじゃないかなあ──滝さん……た、滝さん、いったいどう──」  渡辺は目の前から滝が消えているのに気づいて、あわをくってもう廊下を曲ろうとしている滝を追いかけてかけだした。驚きに目を丸くしている。 「滝さん! 滝さんてば」  聞く耳もなく、足をもつらせて階段をかけおり、ひえびえとした駐車場への廊下を靴音をひびかせて走りぬけ、滝は広い駐車場へかけこんだ。駐車場には相変らず人の影すらなく、並んだ自動車だけがしんとしている。滝はわかりきっていながら、息を切らして、すべての車をたしかめに端から端まで走った。  結城のメルセデス・ベンツは消えている。  滝は咽喉からほとばしろうとする絶叫をかみこらえて、やにわにまた走り出した。車の出口へむかって大股に、ゆるい勾配になっている道を走り、角を曲り、ホテルの横へとび出す。高台のここからは、すぐ下に走っている大通りとその向うの高速道路が一望で見わたせた。その向うにさらに、夢幻の輝きをくりひろげている首都の夜景。 (先生のベンツだ!)  その優雅な車体が赤いテールランプの光をひいて、大通りを走り抜けると車の列の中に入ってゆくのをたしかに見わけた、と滝は思った。だが一瞬のうちに、輝くヘッドライトの光の河の中に車の光芒を見失い、激しいクラクションが滝を我にかえらせた。 「いなかったでしょう。一足ちがいですよ」  追ってきた渡辺がはあはあ云いながら滝の腕をひっぱった。 「どうしたんですよ、一体」 「……いや──」  滝は茫然と光の流れに目をさらしながら、かすれた声を押し出した。 「いいんだ……」 「何か先生に急ぎの用でもあったんですか?」 「え──ああ、そうだ。だがどうせ戻ってくると云ってたんだろう?」 「そうですよ。一時間ぐらいで戻るって。あの調子じゃあ、時速百キロぐらいで往復してくるでしょうよ。何だったら、そんな急用だったら、白崎さんのところへ電話かけたらどうです。調べりゃすぐにわかりますよ」 「いや、いい、そこまで急ぎってわけでもないんだ。ただちょっと思い出したんで慌てちまった」  おれは一体誰なんだ、と彼はぼんやりと考えていた。こんなことになってもまだおもてむきは顔色ひとつ動かさず落着いた態度で、話のつじつまをあわせたり、あやしまれぬようにと弁解したりしている、このおれは一体何ものなのだ。まるで、まったく見知らぬ人間に彼のからだが占領されてしまったかのようだった。 「戻ろう、そのことをまたみなに伝え直さんと。まあよかったな、これで予定どおり大石さんのバンドが全員出演できる」 「ただ問題はジョニーにどう納得さすかだなあ。あの子ご機嫌斜めンなったらおしまいだからなあ──それにいまはたしかに結城先生でなきゃ、夜も日も明けないんだから。甘ったれだからなあ、駄々こねだしたら大ごとですよ」 「うまく云うさ。仕事じゃ、しかたあるまい」 「それがいちばん気に入らないんでしょうよ。先生が自分より以外のこと考えたり、ほかの人の仕事するっていうのが」  ふたりはホールに向って肩を並べて歩き出していた。渡辺は愛情深く苦笑して云った。 「まあ我儘で自己中心で、駄々っ子で甘ったれで、どうしようもない子だけど──しかしなんでああ可愛いんでしょうね。あの子ね、先生がちょっとでも見えなくなるとぱっとしょげちまうんですよ。もうはっきりわかるんだな、目まで艶がなくなって、まわりのことに興味なくして、だんだんしょげこんじまうんですからね。いまにも泣きそうになってね──そこへ先生が来ようもんならもう大変だ。何てのかな、いっぺんにぱーっと生きかえっちまって、目の色まで生き生きしてはしゃぎだしてね。あれは、はたで見てたってもういじらしくて何も云えなくなるもの、あれをあびせられる結城先生なんて、きっと気が変になるくらい可愛くてしようがないんでしょう。結城先生の、ジョニーを見る目つきね、まるでその目で飲みこんじまいそうな──ほんとうに可愛くて、大切で、夢中って目だな。あれだけの立派な人が、そこまでメロメロになるだけの魅力はあるんだ。まあ、ライオンの子どもみたいなもんでしょうね。ただしつむじ曲げられる方は|こと《ヽヽ》だけどねえ」 「だからって、歌うのはイヤとは云うまいさ。あいつだって、プロの歌手なんだからな」  おれは一体何を云ってるのだろう、と再び滝は思った。これはすべて夢なのだろうか。悪夢からさめられないでいるだけなのだろうか。  自分のしたことの実感が、ふっとうすれていく。ごりごりという神経にさわるのこぎりびきの音、掌にべとついた機械油の感触、それがふっとうつろになった心の谷間へおちこんでゆく。  あれは夢だったのだ、と滝は痴呆のように思った。恐ろしい願望がそんな悪夢をみさせただけだ。何ごとも起こるわけがない、すぐにでも先生が帰ってくるだろう。元気な、瀟洒な姿をあらわして、良の機嫌を直させるだろう。そうでなくてはならない。何ごとも起こるはずがない。 (そうだとも──おれは、結城修二というひとを、いつだって、心から好いて、尊敬して、憧れてさえいるのだから)  滝は自らの心が現実に立ち向いかねて、ふらふらと逃れ出ようとしていることさえ、意識してはいなかった。 (そうだ──先生は帰ってくる……)  もはや、いまの滝は、失うよりはいっそこの手で二人の愛人たちを屠ろうと暗黒な決意に狂った滝ではなかった。思いもしなかった齟齬が彼のあれほどの鋭い思考力や決断力さえ奪っていた。  彼は運命の巨大な手の中にひっつかまれ、嘲笑される一枚の木の葉にすぎなかった。そのあざけるような巨大な手が次に彼をどこへつき落そうというのか、投げとばそうというのかすら、彼にはわからなかった。 (先生が……) 「先生が?」  みるみる良の顔が曇った。 「どうしてよ。先生どこ? 一曲も弾いてくれないの? ぼくの新曲発表会なのに?」  もう行ってしまった、とは云えずに渡辺も目を白黒している。あわてふためいて、デュークや佐野ディレクターがなだめにかかった。 「しかたないじゃないか、ご用なら」 「すぐ戻って見えるよ。さ、仕度して、歌をきかせてくれよ、良ちゃん」 「先生きいてもくれないの?」 「ジョニー……」  良の目がたちまち曇って、うるみかける。それは妙に見るものに見すてられる不安に震えているむきだしの魂の悲しみをいたく感じさせるいじらしさだった。良は猫だ、と滝は何百回とない思いを再び思っていた。猫の高貴と残酷と気儘は云うまでもないが、その上に猫の哀しさ──すてられた猫のいたましさまでも完璧にそなえているのだ。自ら愛することを知らぬゆえにこそ、愛されることにあまりにも貪欲な猫。 「さあ、ジョニー、機嫌を直して」 「つまんない」 「そんなこと、云わないでさ」 「さあもう大石チャンにはじめるように云うぞ」 「だって……」 「良!」 「わかったよ、なんだい、怒ることないじゃないか」  さすがに周囲をはばかって、つけくわえて口にこそ出さなかったが、うっぷんのぶつけどころとばかり冷たく滝を見かえした茶色の目には、じゅうぶんに残忍なきらめきが宿っていた。 (まだ保護者ぶりやがって──明日っからは、もうなんでもないんじゃないか。思いあがんないで欲しいな。ぼくは、あんたなんか、何とも思ってなんかいないんだからね! ──)  滝の、サングラスの奥でぐっときびしくなった目の光を見ると、あてにしている結城が中座しているのをふいに思い出したらしく、憎々しい目つきをひらりとそらして、そっぽをむき、歌の準備にかかる。滝は黙りこんで手筈をととのえた。  しきりのアコーディオン・カーテンの向うにすでにバンドのセッティングは完了している。弾き手のいなくなったグランド・ピアノをすみに寄せ、マイクの位置を直し、金屏風をたたみ、アコーディオン・カーテンをあける前にいったん室の照明を落した。  前奏がはじまり、ぱっと二方からのライトで純白の良が照らし出されるとさかんな拍手が起こる。  さきに結城のソロピアノの伴奏で披露した新曲を、こんどはブラス、ストリングスつきで良は歌った。アレンジも結城がやっている。美しいストリングスのユニゾン、ブラスのバッキング・アップ、そこにスライドしてギターがかぶさる。良の歌は一段とはえている。 (だがやはりまだすっかり気分を直してはいないようだ)  声のつや、思い入れのしかた、表情やしぐさの気の入れかたひとつにいたるまで知り抜いた良である。これっぽっちの良の心のかげりでも、ゆらめきでも、自らの心の内部と同様にそのきざしを見てとることができる。結城に伴奏して貰えぬというのでかなり中っ腹の良が結城がいればたちまちどなられるくらい、投げやりで機械的な歌い方をしているのがわかる。  だが良が歌いおわると拍手が広いホールをゆるがした。次は『ラブ・シャッフル』、ヒット中の結城─中村コンビの曲だ。ステージの袖できいていた滝はそっと袖をひかれてふりかえった。隆が立っていた。 「なんだい、つまらん用ならあとにしてくれ」 「滝さん、お電話です」 「誰から?」  ふいに滝の表情が変った。隆の蒼白な顔の異常さに気づいたのだ。 「あ、あの──」 「いい、いま行く」  走るようにして、フロントの電話にとびついた。 「尾崎プロの方ですか?」 「はあ、そうですが──私は今西良のマネージャーの滝ですが、そちらは?」 「こちらはK大学病院です」  機械的な声が云った。 「ご自宅におかけしましたところ、何もわからぬのでパレスサイド・ホテルの尾崎プロの関係者の方に連絡してくれといわれましたので──いましがた、作曲家の結城修二先生が明治通りの入口で、衝突事故を起こされてこちらの外科病棟に収容されました。もしもし?」 「怪我を──なすったんですか?」  かろうじて滝はきいた。かたわらの隆の真青な顔と、のぞきこむ目をぼんやり意識する。ようすがおかしい、とみて出てきた杉田がけげんな顔でちかよってくるのへ、滝は激しく首をふった。ホールの中からは、良の歌声とオケの伴奏がきこえてくる。 「車が横転し、引火して爆発して──重体です。ご家族はいらっしゃらないようですが、連絡はそちらでよろしかったのでしょうか? あ──いえ、少々お待ち下さい」  看護婦の機械的な声が云った。 「いま──お亡くなりになったそうです」 [#改ページ]     29 「あんた……」  滝は、周りにいつのまにか集まっているひとびとに気づかなかった。彼は腹立たしげに云った。 「あんた──誰なんです? 何故そんなことをいうんです? 冗談はやめて下さいよ──かつごうったってだめだよ──そんなはずがないじゃないですか──そんなはずはない──」 「滝さん、どうしたんです、滝さん!」  肩に手をかける杉田を無意識に滝は激しくつきとばした。 「滝さん!」 「誰がどうしたって? 怪我とか──」 「うるさい!」  滝はわめいた。 「きこえんじゃないか! ──もしもし! もしもし! 先生を出してくれ。先生にかわってくれよ! もしもし! そんなわけがないんだ、誰かのまちがいだよ。先生が死ぬなんて、先生が死……」 「滝さん!」  いきなりむちゃくちゃに肩をゆさぶられて、滝ははっと我にかえった。電話はとっくに切れていた。 「誰が死んだんです。先生って誰です。滝さん、どうしたんですよ!」 「結城先生が──交通事故で……嘘にきまってるさそんなこと、あの先生が……」 「結城先生がッ!」 「なんだなんだ、どうしたんだ、そうぞうしいよみんな、ジョニーの歌ってる最中だよ!」 「ああ、佐野さん、あ、あの──」 「隆!」  いきなり滝はとびあがるように、隆の首根っ子をつかんだ。もう一方の手で杉田の衿をつかみ、狂ったような目で周囲の十人ばかりをにらみすえた。 「た、滝さん」 「良には──知らすな」  滝はぶきみなおし殺した声で云った。 「ひとことでも洩らしてみろ、叩きのめすぞ──いいか、何かのまちがいだ。おれは病院へ行ってたしかめてくる。いいか、良に勘づかれるな……なにも変ったことがあったとみなに気づかれるなよ、めでたい席だ……早く戻れ──まだ何もわかったわけじゃないんだからな。杉田、あとを頼む。いいか、良に知らすなよ……」 「は──はい」 「おれはK大病院へ行ってくる。いずれ戻る」 「滝さん……」 「まちがいさ──人ちがいだよ。そうに決まっている」  滝はひきつったような笑いをうかべるなり、人垣をつきとばすようにして、ガレージへかけおりた。スカGのキーをさしこむ手ががくがくして、思うようにならなかった。ごぼう抜きに発車して、滝はようやくひとりきりになった。ぐいぐいと彼はアクセルを踏みこんだ。尾をひいて走り去る光の流れの中に割りこみながら、ふと彼は、前に──ずっと昔にこんなことがあったと、そんなたわいもない既視現象《デジヤ・ビユ》にかられた。  夢の底のような非現実感、光の河、ひろがるイルミネーションの海、右に左に追い抜いてゆく彼の車にあびせかけられる警笛、そして夜の中をどこまでもどこまでも走りながら、永遠に目的地へ着くときはないのではないかというこのもどかしさ。  はてしない時空のひろがりのなかで、この身がかぎりなく小さく、むなしく、海を泳ぎ渡ろうとする一箇のプランクトンよりも小さく、希薄になってゆく思い。  なにも考えるなよ、と滝は自分に命じた。|まだ《ヽヽ》、何も考えるな。いや、何ひとつ考える必要はない、考えてはいけない。咽喉までつきあがり、ふくれあがっているそのかたまりに手をふれてはいけない。  はっと気づいたとき、目の前にミキサー車の巨体がもろに迫っているところだった。黄信号に気づかずつっこんでいたのである。急ブレーキがきしんだ。死の黒いあぎとがぬっとちかづくのを滝は見た。 「ばか野郎っ!」  狂ったような警笛。滝は、はあっと激しい息をして、額をぬぐった。手がハンドルにはりついてしまってい、むりにひきはがして額をこすると、顔は冷たく氷のようになっていた。 (先生……)  考えるな、と滝は思った。しかし再び信号が変って走り出した車の中で、その滝の考えからむくむくとはみ出してその思いはあふれてきた。もはや、彼の制御はきかなかった。 (先生、先生──結城先生) (おれが殺した) (人殺しだ。おれは、人殺し)  とうとうきいてしまったのだ。そのことばを、とうとう滝はきいてしまった。みるみるそれはふくれあがって彼を満たした。 (人殺し。人殺し、人殺し、人殺し、人殺し、人殺し) (おれがやった)  三十分フラットでK大病院の暗い庭にすべりこんだ、滝の耳の中には、ただそのことばしかひびいてはいなかった。滝は車からおり、よろめいた。吐気がした。受付に彼は用件をつげた。  廊下はうす暗く、病院の匂いがした。案内された病室の、窓ぎわのベッドに、細長い物があった。白布と布団とにおおわれた物だ。 「武蔵野のお宅にお電話しましたら、なんだかえらく若い人で全然要領を得ないのです。家族の方かとききましたら、家族ではないと云いましてね。で、パレスサイド・ホテルの真珠の間と教えていただいたのですが、たしかに結城修二氏なら結城重工業の結城大作氏のご長男だというので、電話帳で調べてそちらにお電話してみたのです。そうしたら、こちらも出たのが使用人の方で、会長ご夫妻は伊豆で静養中だといわれる。結局まだ確認も済んでおらぬ始末なのです。名刺もあれですし、まちがいないとは思いますが、一応確認をお願いできますな?」  小柄な医師が、滝が結城の手がけている歌手のマネージャーでかねて結城とは昵懇であるとたしかめてから云った。滝はうなずいて進み出た。吐気はいっそう激しくなっていた。  だが、見るのだ、と彼は激しく心の中で絶叫していた。見るのだ、お前の屠ったひとを。お前のしたことを、決して目をそらしもせず、伏せもせずにはっきりと見すえるのだ。だがまだ二分ぐらい、彼は信じてはいなかった。結城修二はこんなふうに突然かえらぬ人になるには、あまりにも美しすぎた。生命にあふれていすぎた。結城と死ほど似つかわしくないものは、考えもつかないだろう。彼は手をのばして白布をとり、そうする自分の手が震えていないのをいぶかしんだ。  医師があわてたように何か云った。損傷がひどいのでと注意したらしい。それは滝の耳を素通りした。彼はじっと見つめていた。 (≪死≫の顔)  結城の美しい顔は、右半面が焼けくずれていた。頭部にぐるぐると白い包帯がかけられているが、頭蓋骨も陥没しているらしく、どこか頭の形がゆがんでいた。あまり損傷をうけていない左半面の頬にもすり傷があり、眉が焦げていた。 「センターラインをこえて対向車と正面からぶつかり、それが大型トレーラーだったものではねとばされて横転したのです。あいては一カ月の重傷をおったが助かりました。ドアがひしゃげたままエンジンに火がまわって、まあ、運びこまれたときには手のつけようもなくて……病院まで息があったのがふしぎなほどでした」  医師の説明はまたしても滝の耳を素通りした。滝はじっと見つめていた。その凝視に彼自身の生命がかかっているかのように、むざんな死の顔を見つめていた。ふしぎにも吐気はいつのまにかさっぱりと消え、ただ頭の中は真空になっていた。  それだけの損傷でさえ、結城修二の端正な顔から、威厳と高貴な面差しを奪うことはできなかったのだ。大理石を彫刻したようなギリシャ型の鼻梁と、静かに閉じた青白い瞼、口髭に瀟洒にかざられた形のよい唇は、相変らず端正で、静かだった。苦悶のあとはなかった。結城修二は、生を愛したように死を愛しはしなかったろうが、生の苦渋と|おり《ヽヽ》とをいさぎよく受け取ったように、従容と終焉を受け入れたのだ。死は尊厳をもって彼を抱きとっていた。滝はこの美しい雄神の死の顔に、むごさも、いたましさも見なかった。 「まちがいありません」  医師に云う自分の声を遠く滝はきいた。 「結城修二先生です。ついさっきまでパレスサイド・ホテルで私どもと……」  そういう滝の顔を医師はふとぶきみそうな目で見守った。滝は、自分が幽鬼の形相をしていることに気づかなかったのだ。  気づいたとき医師の姿は失せており、うしろで扉はしまっていた。彼は結城とふたりきりになっていた。 「しばらく──ここにいてよろしいでしょうか……先生とふたりで……」  自分が何と云って医師を追い出したかさえ、滝は気づいていなかったのだった。夜がかれらをつつんでいた。 「先生……」  その顔から目をはなすことができずに、滝は囁いた。 「先生──結城先生……」  滝の手が、がくがくとぎごちない動きであがり、結城の顔の方にちかづいた。その顔にふれてみたかった。 「何か云って下さい……先生」  これが、自分のしたことだ、という実感は、結城の死顔を前にしたときから消えてしまっていた。結城の死、という事実を受けとめるだけで、彼の心はありったけの力を出しきってしまい、他のことは何ひとつ入る余地すらなかったのだ。  おかしい、と滝は心のどこかの隅でかすかに思った。おれはそんなに、結城修二を好いていたのか。結城修二はおれの中で、そんなにも大きかったのか。  滝は真空だった。生半可な情緒は入りこむこともできぬまでに、喪失の虚無が彼をつかんでいた。彼は結城の頬を撫でた。冷たかった。 「先生……なぜひとりで会場から抜け出したりなすったんです。なぜ──あの子に別れらしい別れもつげず、あの子の名を呼びもせずに行ってしまわれたんですか。こんなに急に、ばかな……それじゃひどすぎる。あの子が、可哀そうすぎますよ──私だって……私がどれほど先生を好きか、ご存知だったはずですよ。こんなところで、ひとりで──良は、いったいどうなるんです……」  滝はふいに膝を折った。結城をつつんだ布団の胸のあたりに、額をつけて、声もなく涙を流した。 (おれはそんなつもりじゃなかった……)  あるいは一瞬も、彼はそんなことがほんとうにありうるとは信じてはいなかったのだ。結城と良とを死の中に送り出し、すぐに自らもあとを追おうと──それは、つくりごとのようなおぼろげな夢の中で彼をとらえた思いだった。彼は結城が、生そのもののような結城が彼ごときの手によって失われようとは、まったく信じていなかったのだ。 (おれは駄々っ子がむしゃぶりつくように、先生にとびついていっただけだ……もちろん、桁のちがう先生の力が、かるがるとふりはらっておれを地面に叩きのめすのを予想して──いっそそこまでとことん打ち倒されてしまいたいと……こんなばかなことが……先生がこんな……)  思うとおりにならぬすべてのことが、ただ無性に腹立たしかった。 (おれは──先生をこんなに好きなのに……)  滝の口から、えぐるような嗚咽がほとばしった。喪失の重さが彼を打ちのめした。結城の遺骸にすがりつき、獣のような声をあげて彼は号泣した。  どれだけの時間が流れたのか、滝は知らなかった。気づいたとき、肩に手がおかれていた。 「あの──あのう」  ふりむいた彼は医師の顔を見た。医師はちょっと息を呑んで、なんとなく入口の方をふりかえる。滝はそちらを見、杉田、渡辺、デューク、デューク夫人、佐野などの姿を見た。 「た──滝さん……」 「滝チャン──あんた……」 「何しに来た?」  やにわに聖域冒涜の瞋恚にかられ、滝は絶叫したが、そのとき入口の人垣が自然に二つに割れた。  滝は、真青な顔で、隆にうしろから抱きかかえるようにされて立ち尽している良を見た。  滝はとびあがった。にぎりしめていた白布を遺骸の顔にかぶせるなり良の方へ突進した。医師が仰天した声を立てた。 「た、滝さん!」 「見るな、良! 見ちゃいけない!」  ひとびとが思わず鼻白むほどの勢いで滝は良の正面に立ちはだかった。 「見るな……」 「た……滝チャン」 「誰だ、ばか野郎、良に云うなとあれだけ云ったのを──なんでこんなところに良を連れて来たりしやがった! 貴様か、杉田! ナベ! 貴様か!」 「滝──滝さん!」 「落着いて下さい!」  目の前が赤くそまり、気づいたとき、彼はうしろから二、三人がかりで抱きとめられ、床に鼻血を吹き出した杉田が眼鏡をふっとばして沈みこむところだった。 「し……」  掌で鼻と口を押さえた杉田を助け起こしながら渡辺が喘いだ。 「仕方ないじゃないですか。ジョニーの方で、何かおかしいって気づいちまったんだ──第一こんなこと知らせずにいつまで済ませられるっていうんです。それよりジョニーにだってひとめお別れ……滝さん!」  云わせも果てず殴りかかろうとしてまたうしろからひきとめられた。思わず佐野たちは鬼気せまる形相の滝からあとずさった。 「良……」  だが滝の逆上は訪れたときと同じくふいに去っていった。滝の膝ががくりと折れ、ぼんやりと立ち尽している良の足もとに滝はくずおれてすすり泣いた。 「良──先生が──、先生が……」 「嘘でしょう? ちがうんでしょう? 先生だなんて……嘘でしょう?」 「良、頼む……」  涙に汚れた顔で滝は良を見あげた。良の顔は、まだ何ひとつ実感できてはいないらしく、青ざめて、ぼんやりしているだけだった。 「先生じゃ──ないんでしょう?」  良はそっと隆の手をはずした。案外にしっかりした足どりでまっすぐベッドに歩み寄ろうとする。滝はとびあがった。まさに白布にかかろうとした良の手をつかみ、握りしめた。 「お顔いだ、良、見ないでくれ!」 「滝さん? どいてよ」 「見ちゃいけない──みんな良を連れてってくれ、頼む!」 「滝」  デュークの大きな手がいたわるように滝の肩をつかんだ。 「かえって残酷だということが──わからんのかい。お前さんらしくもないよ。良は自分で納得しなければ、信じるわけにはいかん。わかってるじゃないか……」 「見ないでくれ……良──」  滝は嗚咽した。良は白布をとった。  自分ひとりでその焼けくずれた死顔を見つめていたときには感じなかったいたみが──結城のためのいたみが滝を貫いた。滝は目をそむけた。 「あ……」 「ひ──ひどい……」  見守るものの喘ぎと衝撃が、彼自身の受けたはずかしめのように彼を打った。気の弱い杉田が、うっ、げえっ、とかすかな声をあげて口を掌で押さえて逃げ出していく。マーサ尾崎は気を失いそうになって顔を掌で隠していた。隆の震える手が良の手から布を取って結城の顔をおおった。  良は立ち尽している。誰も何も云い得ぬままに、隆の手がそっと良の肩をつかんだとき、良はふとふりかえって無表情に隆を見た。何かふしぎでたまらぬような目の色になっている。 「う……」  良はかすかに喘いだ。 「良──」  はっとして滝がとびだそうとしたとき、良の手があがり、息でもできなくなったように咽喉をつかんだ。と思うと、良のからだはゆるやかにうしろに倒れこみ、ふいをつかれて隆はよろよろとなった。 「良!」  だが良のからだがくずれ落ちる前に、滝の腕がしっかりと良を抱きとっていた。嘘のように、落着きが滝に戻ってきた。 「良ちゃん!」 「ジョニー!」 「大丈夫です──貧血が、癖になってるんです」  滝は良のからだを脇の下と膝に腕をまわして、かるがるとかつぎあげながら沈痛な声で云った。 「私は──良を連れて戻ります……あとのことは──」 「私がやろう」 「わかった、滝」  佐野とデュークが同時に云った。 「結城先生のご両親は東京におられないそうです……あれこれの手配は──」 「結城大作氏はたしか二カ月前に、かるい脳血栓の発作で倒れてから、ずっと伊豆で療養中だったな」  デュークが云った。 「それでは──結城先生は、お通夜をする人も?」 「ああ──」 「私が残りますよ」 「あたしも残るわ」  マーサも云った。 「滝──良ちゃんを頼む……」 「ええ──この子は、これ以上、ここにおかない方がよいと思います──この子の神経じゃ……」  滝はがっくりとうなだれたが、ベッドに向って深く頭を垂れ、それから佐野やデュークに会釈して良をかかえて歩き出した。 「滝さん、ぼく手伝います」 「いいんだ、隆──おれと良だけにしといてくれ……杉チャン、済まん、取り乱して」  隆のあけてくれたドアを滝は重い足どりで出た。うしろでドアがしまる。滝は隆と、渡辺たちにつきそわれ、黙って車までを歩いた。一歩、一歩が、結城から遠ざかってゆく距離だった。 「あ……」  良が低く呻いた。取りかえたタオルをしぼっていた滝は、無言で枕の上をのぞきこんだ。  良の顔は血の気がない。ぼんやり、自分がどこにいるかわからぬように睫毛をあげて見まわし、滝を見た。 「滝さん──」 「飲みなさい」  滝は良を抱き起こした。良はパジャマを着せられて、いつもの自分のベッドにいる自分に驚いたように見おろし、それから滝のさしつけた気つけの葡萄酒を素直に飲んだ。 「ぼく──どうしたの?」 「脳貧血だ」  滝は手短かに云った。良はぼんやりした目つきをし、それからやにわに、結城の死顔が瞼によみがえったのだろう、抱きとめる滝の手をつきのけるようにして顔を掌で押さえつけ、ベッドにうつぶせに倒れこんだ。 「良!」 「さ──さわらないで!」 「良!」  ぎくりとして滝は叫んだが、良は別に何かの意味があってそう云ったわけではなかった。なすすべなく見守っている滝の前で、枕に顔を埋めた良の細いうしろ首と肩はしだいに震えだしていた。  滝は堤防の切れるときをただ待つしかないもののように、食いいるようにその良の姿を見つめ、動くこともできずにいた。  良の中でゆるやかに激潮がこみあげて来ようとしている。それが滝には見える。それは良をつきあげ、押し流し、呑みこもうと迫ってくる悲痛だった。良の口からおしころした呻きのような声が洩れている。  なすすべもなく、ただありたけの思いをこめて凝視する滝の前で、良の肩の震えはしだいに押さえきれず激しくなっていた。そして、それは来た。 「先生──先生──先生──先生!」  良は魂をふりしぼるようにして呼んだ。その声が意味をなさぬ悲鳴のような嗚咽に変り、良はのたうつ巨大な蛇のように布団の中で身をもんだ。 「良! お願いだ、きいてくれ──」 「先生っ! いやだ、そんなのいやだ!」 「良!」  良のからだが仰向けになり、布団をはねのけ、わが身を粉砕したいかのように自らを叩きつけた。滝はいまの良の耳に何ひとつ入りはせぬのを承知の上だったが、うろたえ、なんとか落着かせようとし、良の名を呼びつづけた。暴れまわる良の肩をつかみ、抱き寄せた。若々しいひきしまった、細いからだの感触が彼の手の中で、手どりにされた魚のようにばたばたともがくにつれて彼に伝わってくる。この少年のために、滝は結城修二を失ったのだった。結城が無事であれば、もうふたたびこのベッドに、この室に、彼の腕の中に戻らなかったはずの少年だった。  おれの胸で泣きわめけ、良、と滝は思った。おれにその悲嘆をぶつけてくれ。たとえどのような呪詛でも、悲愁でもかまわない。 (おれが受けとめてやる──良!)  良は滝の腕をはねかえそうとし、激しくいやいやをするようにかぶりをふりつづけ、滝の胸を拳で叩いた。良は泣いてはいなかった。かわききった目で、苦しさに身もだえするように、良は嗚咽していた。 「はなして──はなせよお! 先生のところへいくんだ! 先生は、先生は──」 「良、落着いてくれ! 頼む!」 「先生は死んでやしないんだ。こんなのみんな嘘なんだから──先生どこへ行ったの、先生が早く来ないからいけないんだ──先生、ぼくをおいてどこへ……」 「良──良──良!」  滝は絶叫した。良はそこに滝のいることにすら、気づいてはいなかった。 「嘘つき──先生の嘘つき……」 「良!」 「もう──絶対ぼくをはなさないって──いつまでも一緒だって……守ってやるって云ったのに……夏になったらヨーロッパに行こうって……パリに、ローマに、ロンドンに……山登り教えてやるって……ギターも、ヨットも、何でも教えてくれるって約束して──ひ、ひどい……ふたりでお揃いのコート作って遊びにいくって……嘘つきだ、先生なんて嘘つきだ、ぼくをおいて……ぼくに黙って……嫌いだ! 大っ嫌いだ、先生の嘘つき! 死んじゃえ、先生なんか、そんな嘘つきなんか死んじまえ、死んじまえ、大っ嫌いだよお……」  あとはもうききとれなかった。かわききって、涙を流すこともできず苦悶していた目に、ついにせきをきって涙があふれ出て、少年を押し流した。細い肩やうしろ首が、いたいたしい孤児の悲哀に泣き濡れていた。ああああ、あああ、と良は赤児のように声を放って泣きむせんだ。  それは拗ねた幼児がありたけの力をふりしぼって駄々をこねているさまだった。おいていかれた悲しみに声をあげて泣きわめいている駄々っ子──だが、子どもはまだ知ってはいない、それはかりそめの別れではない。いくら駄々をこねても、身もだえして拗ねても、やさしい腕が抱きとめに戻ってくることはもはやないと、まだほんとうに知覚してすらいないのだ。  手のつけようもなく、手をさしのべるすべもなく、滝は立ちすくんでいた。慰めることばも知らず、彼はただ良を見つめた。良の泣き声と稚い途方にくれた泣き顔のどうしようもない憐れさが彼自身の悲傷にひりひりとしみてゆき、いっそ一緒になって彼も泣きわめきたかった。良はうつぶせて、髪を枕の上に乱し、拳で枕を叩き、シーツをかみしめて泣きつづけた。身をもんで、結城を呼び、呪い、怒った。どうして、そんな仕打ちを受けねばならぬのか良にはわからなかったのだ。不当さに抗議するように、許してやらない、やるもんか、とあたかも目の前で哀願している結城に云うようにわめきたてた。いますぐぼくを連れに来て、と叫び、幽霊でもいいから出てきてと呼びつづけた。だがやがて声もかれ、息も切れて、嗚咽は力ない子供っぽい、しくしくとしゃくりあげる泣き声に変っていった。力尽きたように、良は泣いた。  どうしようもないいたましさを、えぐられる悲痛の思いが滝をつかんだ。良の、見すてられた幼児の悲傷は、とうてい正視にたえなかった。それを良の上にもたらしたのがほかならぬ自分の汚れた手であることを滝は忘れた。ただいとしさと、その少年のためにどうなってもかまわぬ思いだけが滝をつきあげ、彼はしゃくりあげる少年の肩をつかんで激しく胸にひき寄せた。  憐れな良の泣顔から、涙をこの指でぬぐいとってやりたい、慰め、つつみ、いやしてやりたい願いだけが彼を圧倒した。彼は自らがすでに許されぬ罪に封じられていることも忘れた。 「良──」  滝は少年をひき寄せ、力をこめてその頭を胸にかかえよせた。滝の胸は、すぐ良の涙に濡れた。 「泣くな──おれがいる……おれがここにいる……もういいんだ。おれは二度とお前からはなれない。これでいいんだ、おれがお前を守ってやる、お前にすべてをやる、決してはなれない。可愛い良──お前のためならなんでもする。泣かないでくれ、もう泣くなよ、良……」  悔いはしなかった。失ったものの大きさを彼自身ほどいたく知っているものはありはしない。しかし、悔いはない、良はいま彼の腕の中にいる。長い長い、あまりにも苦痛な別離の悪夢は去り、彼の胸の中の、良のからだのかたちと重みをした空白は、いまようやく満たされたのだ。  そのためにあれをせねばならなかったのなら、と滝は思った。たとえ千回生まれてきてあのブレーキ・ホースのきしみをきかねばならぬとしても、彼が長いことたしかに、真実の敬慕でもって愛してきた結城修二という素晴らしい男のあのむざんな姿を永劫に瞼の裏に見つづけていなければならぬとしても、悔いなどしない。  ひとの心など、とっくにおき忘れてしまった。いまのおれはもはやただひとの形をした悪霊、たったひとつの妄執それ自体にすぎない。そしてその妄執はいまこうしてその対象を腕に抱きしめているのだ。 (良!!)  滝の指が少年のきゃしゃな顎にかかり、ぐいと持ちあげた。吸い寄せられるように、滝の唇が良の唇にかさなった。良がもがくのを滝は夢の中のようにぼんやり感じていた。彼は腕に力を入れ、ぐっと良をひき寄せてはなすまいとした。良の抵抗は弱々しかった。滝は激しくその唇を吸った。  お前を抱いている、唇をかさねている、と滝は思った。考えてみればそれはほとんど最初の抱擁であると云ってもよかったのだ。かつて滝は良を暴力的に犯していたが、それは愛からでもなく、欲情からでもなかった。  ずっと良を愛し、守ってやろうと心に誓ってきたあいだにも、愛人としての抱擁をついに彼はせずにきた。愛している──とすら、云ったことのない彼だった。  そして結城が力強い良の保護者としてあらわれてからは、良と彼の間柄はしだいに緊張し、むしろ憎悪すらはらんで嗜虐と反抗とが激しくもつれあうものでしかなかったのだ。  愛している、と滝は思った。お前のためだった。お前のためにおれは殺人者にまでなった。お前を見出し、はてしなく遠くへ連れ去ったおれもまた、お前によって二度と戻り得ぬ彼方へまでいざなわれてきてしまった。  だからこそ、もはや、お前とははなれられない。このまま、お前の唇に唇をあわせ、お前のからだを抱きしめたまま、死んでいい。だが、そのとき、滝は、ふいに激しくつきのけられた。 「良──!」 「はなして!」  ようやく我にかえったように、少年は、無我夢中で滝を押しのけ、その腕と、唇から逃れて、とびすさった。 「──何するんだ!」 「良!」  滝は瞬時に蒼白になりながらふたたび抱き寄せようと手をのばした。良はかすかに声をあげて滝の手を逃れ、壁に背がつきあたるまでうしろへ逃げた。滝を見あげているふたつの瞳には、なにか無限の恐怖と──そして青白い拒否だけが宿っていた。 「良っ!」 「さ──さわらないで! 何するんだ!」 「良、お前は──」 「近寄らないでったら!」 「良!」  くわっと、滝の中に嚇怒がつきあげた。あくまで結城しか眼中にない良、とことん彼を拒絶しようとする良に、彼の理性は血の味のする狂気の炎の中にくずれおちていった。滝は喘いだ。  きさまはおれのものなのだ、と滝は恐ろしい狂った笑いにむざんに頬をひきつらせながら囁きかけた。おれが自由にしていい、おれのものなのだ。おれからどうして逃げる。どうしてそんな目でおれを見る。 「あっちに行ってよ! ひとりにして!」  良は絶叫した。目は見開かれ、滝の上から一瞬もはなれなかった。何か、野獣の本能のように、良は何かをかぎあて、そして怯えていた。滝という男に怯えていた。 「良──なぜそんなに逃げる……どうしたっていうんだ……」  滝はかすれた声で囁いた。唇がゆがみ、凄惨な微笑がうかんでいた。 「おれじゃないか──お前のマネージャーの滝さんだぞ……なんで、そんな目でおれを見るんだ? おれのキスは、いやかい? 先生と、どこがちがうっていうんだ──どうしてだ、良、なぜそんな顔で──そんなに怯えてるんだ!」 「来ないで──」  良は呻いた。 「何するんだ──あんたなんか嫌いだ──ぼくに──ぼくにさわったら……殺してやるから──」 「なぜそんなことを云うんだ?」  滝が一歩ちかづくと、良は一歩逃げた。壁に背をつけたまま、横に動いて、寝室のドアから逃げ出す気だろう。それを読みとって、滝はにやりと笑った。良はうわめに激しく彼をにらみすえて、歯を食いしばった。 「良──どうしたんだ。なぜ逃げる? いつだって、やさしくしてやるじゃないか? おれは、お前のマネージャーだぞ──こうなりゃ、まだ当分はそうだ、なあ、そうだろう? こっちへ来いよ、良──おれが怖か、ないだろう……どうした、良? 忘れたのかい、長崎のホテルで、あんなに夢みたいに楽しかったじゃないか……ずいぶん昔みたいだが、まだ二年しかたっていないんだぞ──思い出せよ良、おれはいつだってお前しかなかったじゃないか──そのおれに、なんだってそんなひどいことを云うんだ?」 「何するんだ……」  良は激しく喘ぎながらまた壁を背でずって動いた。滝は笑い、ゆっくりと良にちかづいた。 「来るなってば、来るなよ! 先生が──先生が──」 「先生は、もういないんだよ、良」  滝はまばたきした。目の奥がおかしくなったのだ。結城がもういない──そんなことは信じられない。いまにもうしろの戸ががらりとあき、彼の長身があらわれて、何をしていると鋭くとがめるような気がする。冗談はよしたまえと、皮肉っぽく笑って云うような気がする。 「だがほんとうだ──ほんとうにもう先生は帰って来ない……良、なぜだ──なぜおれでは、だめなんだ……」 「さわったら殺すよ!」  良は咽喉の裂けるような声で絶叫した。 「うるさい、うるさい! そんなことききたくないよ! 二度と先生のことなんか云うな! こっちに来ないでよ! 何をするつもりなんだ! あんたなんかにさわられたくないんだよ──放っといてよ! さ、さわるな!」  さいごのほうは悲鳴だった。いさいかまわず、滝は手をのばし、良の手首をつかんでひきずり寄せた。  良は声をあげてふりはらおうとし、ずるずるとひき寄せられてどうしてももぎはなせないと知るなり歯をむきだして、思いきり滝の二の腕にかみついた。  劇痛が走ったが滝はかまわず、はらいのけようともせずに、ふかぶかと歯が肉にとおるままにして、凶暴な哄笑を洩らし、やにわにあいた手をふりあげて思いきって手厳しい一発を頬に見舞った。  恐ろしい威力だった。良の上体ががくんとのけぞり、顎があがり、手首をつかまれたまま良は吹っとんでしまった。すばやく、滝は倒れた良のからだに馬乗りになった。  目の前が赤い。もうだめだと、何の意味もなく滝は思っていた。これでおわりだ。だが知ったことか。 「おれから逃げられるか──逃げてみろ……逃げてみろ──おれの手から……」  おれの手から、おれの唇から、おれの抱擁から、おれの愛から──滝はおめいた。めちゃくちゃに少年の肩をつかんでふりまわし、指に力をこめて肩の肉にくいこませ、狂った猫のように暴れまわる少年を強引に抱きすくめて唇をおおった。激しく、唇にかみつこうとしたのをすばやく顎を押さえつけ、みぞおちに拳をたたきこむ。 「畜生っ!」  良はとぎれとぎれの呼吸をつづけようと苦しむあいだにかすれ声でののしった。 「殺せよ! 殺してみろよ! 早く殺せ──殺せ!」 「きさまを殺すだと? 殺してたまるか、おれの可愛い──良!」  滝は幽鬼のような笑い声を立てた。 「きさまは死にたいんだろう。死んで、早いところ先生と一緒になりたいんだろう。きさまの考えぐらいお見通しなんだ──誰が、きさまの思うつぼになんぞはまるか! おれはきさまをはなさんからな。逃げられるものなら逃げてみろ! 先生はもういないんだ──きさまは、おれのものだ、ただの|もの《ヽヽ》なんだぞ……逃がすものか……こうして抱きしめて、地獄の底までだってひきずっていってやる……」 「は──はなせえ!」  良は絶叫した。 「はなして! さわらないで! 何するんだよ!」 「良──きさまはおれのものなんだ! おれが思いどおりにしてやるんだ──おれの──」 「やめてよう!」  良は、なかば自分を抱きすくめてしゃにむに唇を押しつけてくる相手が、滝であるということすら理解していなかったのかもしれない。ただ良は服喪のこの夜におそいかかってこようとする理不尽な男、良の悲嘆をあえてさまたげようとする彼にひたすらな嫌悪と冒涜の怒りを燃やして、夢中に身もだえしていた。  盲滅法にふりまわした拳がまともに滝の顔を打ったが、滝はひるみさえしなかった。渾身の力をこめた彼の手で、音をたてて布がひき裂けた。 「おれのものだ! お前はおれの──」  良はそれでもなお、心の半分は、結城のことしか考えていなかったにちがいない。滝ががむしゃらに組み敷いて、とうとう身動きもできぬように押さえこんだとき、はじめて相手の意図に気づいたように、良は目を開いて、のしかかっている男を凝視した。 「何するんだ……」 「何をするだと?」  滝は凄惨な笑い声を立てた。 「お前を抱くんだ──わかってるじゃないか……きさまの、そのけしからん頭の中から、結城の亡霊を追い出してやるんだ。お前にはおれがいる──おれさえいればいいんだ。もう二度と先生の名を呼ぶな。先生はもう帰って来ないんだ!」 「なんでそんなことを云うんだ!」  良の声はほとんど悲鳴にまでうわずっていた。 「なんでこんなことするんだよ! あんたには何も関係ないじゃないか! もうぼくをそっとしといてよ、お願いだから……何にも考えたくない、何にもききたくないんだよ──先生が……先生が……」 「そうか、わかったよ」  滝は手首をつかんで押さえつける手に力をこめながら云った。 「お前は、そこまで、おれをばかにしてるんだな。先生、先生で──おれなんか、人間だとさえ認めてないっていうわけだな。お前と先生だけがこの世の中でふたりっきりの人間で、ほかに誰もいない──どこまでも、おれなんか相手にできないっていうんだな」  滝の肩は激しく波立っていた。それはむしろ、瞋恚、憤怒というよりは、どうすることもできぬ悲痛と哀哭にほかならなかった。  彼に何をなし得たというのだろう。彼は結城をその手で屠ったのである。  もう良には、力強い結城の庇護はなく、滝の狂おしい暴力から身を守るすべはなかった。滝はそうしようと思えば、良をひき裂くことも、その手で手足を一本ずつへし折ってゆくことさえできた。  だが、そうして何になるだろう。  良は彼を見てはいない。良の目は死んだ結城を見つめ、結城をしか見てはいなかった。胸を切り開いて良の心臓をつかみ出したとしても、その心を手に入れることはできないのだ。ひとの心の、なんというむごさ、ふれがたさだろう!  これまで存分に良を、自分の|もの《ヽヽ》であると信じ、そう云いもし、そう扱い、良だけではない、多くの人間を道具、あるいは手段として自由に動かせる駒としか思わず、そうできるおのれの力にひそかなよろこびを味わっていた滝のような男が、たかが十九歳の、肉体的には彼にあらがう力もないきゃしゃな少年の徹底的な拒否に直面したとき、云い得たことは、ただそれだけでしかなかったのである。  良が結城の愛につつまれはじめ、彼をその稚い冷淡な心の外へと押しやりはじめてから、ずっと、それに直面せぬためにこそあらゆるごまかしでひきのばしてきた瞬間が、滝の前にあった。  恐ろしい閉ざされた扉が、彼の目の前に、どこまでも閉ざされたまま立ちはだかっていた。おどしても、すかしても、哀願してもむなしい扉だった。結城を殺しさえした彼に、良の拒否は、あざわらうように厳然と存在していた。  あんたは暴力をふるい、裏金を使い、スキャンダルやコネクション、どんなものでも使って、自分の思いどおりにことを運ぼうとする、と、何も知らぬ良の泣きはらした目は、云っているかに思われた。  そしてこんどはとうとう、結城修二を抹殺さえしてしまった。だが、どうやってあんたは人に愛させることができるのか。あんたが何をしようと──もがき、あがけばあがくほど、あんたはひとの心から遠ざかるだろう。あんたは愛を何であがなおうというのだ。もうおそすぎる、あんたは決して愛をかいま見ることさえできないだろう。 「黙れ!」  滝はやにわに顔をおおって絶叫した。 「やめろ! ちがう──そんな──そんなつもりじゃ、なかったんだ!」  彼のからだの下で、驚いて、良が見あげている。大きく瞠られた目は冷やかだった。滝は呻いた。 「やめるんだ! そ──そんな目で見るな! そんな目をするのはやめろ! やめないか、畜生──こ、こうしてやる!」  滝は大きな掌をひろげて良の顔をつかみ、目をおおった。だが、その掌をとおして、その目はまだ滝を見あげている、という気がどうしても消えないのだ。澄んだ目、茶色の硝子のような、無感動な、いぶかしそうな、道ばたの石ころでも見つめるような目。滝の咽喉に悲鳴がふくれあがってくる。その冷やかな良の目が、結城の翳のない輝かしい目とかさなってゆく。 「やめろ!」  滝は叫びざま、再び良の唇をおおった。良が呻き、つきのけようともがく。そのパジャマの衿をつかんで思いきりひきおろした。 「そ──そんな目をするのを、やめないか……こうだぞ! こうだぞ!……」  滝は我を忘れていた。口の中に血のなまぐさい味がし、結城の穏やかな微笑と輝く目が目の前に巨大に迫ってくる恐怖感にとらえられていた。激しくかぶりをふりながら、彼はしゃにむに良のからだをつかみ、押し開き、侵入しようとした。 「やめて!」  良が咽喉をしめあげられながらかすれた声をあげる。滝は首をつかんでいた手をはなして思いきり頬を叩いた。 「どうして……」  力尽きたように良がかすかな声で呟く。 「どうしてこんなひどい……」  そうだ、と滝は思った。どうして、こんなことになってしまうのだ。ひどい。ひどすぎる──おれは、良を愛した、良にも好いてほしかった、だけなのだ。それが罪なのか。それがわるいというのか。  彼は自身呻き声をあげながら、すさまじい勢いで押し入った。良の咽喉から、おさえきれぬむせぶような苦悶の声が洩れる。かまわずに、滝は、溺れかけた人間がさいごの棒きれにつかまるほどの力をこめて、狂ったようにからだを動かした。じきに良は激痛に悲鳴をあげはじめ、むごたらしく打ちこまれた責苦から逃れようと必死にずりあがろうともがきはじめたが、滝の手はしっかりとそのからだをつかんでいた。  逃がさない、と彼はくりかえした。このまま死んでもかまわない。いや、死にたい。もう二度と良からはなれたくない、良と別々の独立した人間という存在になりたくない。良と融けあい、良のなかに身を埋め、ひとつの肉、ひとつの虚無と化してしまいたい。  彼は力のかぎり良を抱きしめ、その口にぴったりと唇をかさねた。肉のへだてが融け去ってしまう、奇蹟の起こるすべはないのか。そのためなら、魂を千回でも悪魔に売っていい、千回でも結城殺しの罪で無間地獄に落されてもいい。  彼の顔は涙に濡れていた。愛している。どんなに拒まれようとも、どんなみじめな罪人であるにしても、彼は良を愛している。これだけは変えることができないのだ。なぜならそれこそは彼の生命、存在の根源そのものなのだから。結城にももはやこの愛から良を救うことはできない。できるものなら幽霊になってあらわれてみるがいい。この愛、良のからだをひき裂き、さいなみ、血を流させるような愛でしかないにせよ、これがおれなのだ。  結城修二は素晴らしい男だった。生を愛し、ひとを愛し、それゆえに生に愛され、ひとに愛され、ひとびとに太陽の輝きをわけ与えた。それゆえに、結城はきっとワルキューレたちに護られて、輝かしい勇者の眠るヴァルハラへ行くだろう。  そしておれは──世にもみじめな虫けらだ。女衒、サディスト、三流の小悪党、冷血な殺人者──そんなおれがひとを愛してしまったことこそが、こんなおれであることの手きびしい劫罰なのだろう。  だがもういい、何もかもどうでもいい。これがおれの愛だ。これがおれの生だ、他のものは知らない。おれと良、ただそれだけ。おれの見出し、おれの育てた天使、美しい悪の天使、誰にも渡さない。おれがあるかぎり、良はおれの、そしておれは良の運命なのだ。  気づいたとき、彼の汗まみれのからだの下で良の呻き声は弱まり、とだえていた。  幽霊よ、出ろ、と滝は思った。おれは恐れない。このおれから良を奪えるなら、奪ってみるがいい。良自身が、いくらおれの手から逃れようともがいても、はなさない、何があっても、もうはなしはしない。もう誰にも、邪魔はさせない。滝の中に、燃え尽きたあとの奈落と虚無が押し寄せてきた。 「良……」  愛というには、あまりにも凄惨な執着であったかもしれない。良のからだは傷ついて、血を流していた。失神したように、蒼白な顔で目を閉じている良を、じっと見おろし、滝はその頬を掌につつみこんだ。唇のはたが、さっきの滝の殴打のために切れていた。 「良……」  もう、何も云えぬ、真黒な疲労が、激動に弄ばれたこのしたたかな男の上に泥の波のようにかぶさってきた。滝はぐったりと身をはなして、良のとなりによこたわり、目をつぶった。結城の悪夢にうなされるであろうことは、よくわかっていた。 (おれは二度と、うなされずに安らかに眠りはできないのだ)  滝の唇に、にがい苦悩の味があった。これは葬送の晩だった。       *  *  夜はたゆたい、よどんでいた。どのぐらいたったのか、わからない。  滝はかすかに呻いた。うなされているのだ。滝のとなりで、どのぐらい前からか、じっと目を開いていた良は、そっと身を起こして、滝の寝息をうかがった。  滝の額はべっとりと脂汗に濡れている。 「あ──あ……」  滝の手があがり、必死に何かをはらいのけるようなしぐさをする。びくりとして、身をちぢめたが、眠りはさめてはいないとみて、良は、またそろそろとベッドから這いおりる作業にかかった。  少年の目は、もう乾いていた。だが光はなく、青ざめた美しい顔は精巧な人形のように生気を失ってみえた。良はからだを動かすたびにぴくりと苦痛に眉を寄せながら、呻き声をこらえてベッドを抜け出し、足音を忍ばせて身づくろいをした。ときどき、びくびくと滝の方をふりかえる。  滝という男に、とことんおびやかされていたのだ。もう、何もかもたくさんだった。滝に犯されたからだは激しくいたみ、まるでやけただれたように疼いた。こんなところにいたら、そのうちに、まちがいなく殺されてしまうと思う。 (もう──スターなんかいやだ、二度と歌なんか歌うもんか)  滝に見出され、アイドル・スター、ジョニーに育てて貰ったために、人びとにちやほやされたし、美しい服やなにもかも思いのままになった。  美しい人形のように、光をあびて歌い、歓声をあびて──だが、その結果、一体何を得たのか。美しい口髭と太陽のような微笑を持つ結城修二という男に愛され、そして結城を失った。  良はぐっと唇をかみしめた。まだ、結城のことなど、考えたくなかった。  ここを出てどこにいけばいいのか、自分ひとりでしゃんと生きてゆくすべを知らぬ良である。受けとめてくれる結城の胸もない──だが、ここにいることだけは、もう耐えられない。 (金……)  日ごろ、良は、ほとんど現金を持たされていない。しかし、とにかくいくらかでも金が必要だ、ということぐらいは良にもわかった。  良は、心臓をどきどきさせながら、滝のきのう着ていた上着に手をのばした。黒のダブルの背広だ。胸ポケットから、札入れをひきだす。十万近い金が無造作に入っていた。札だけ抜いて、札入れをポケットに戻し、金は自分のポケットにねじりこんだ。  それから右のポケットに手をつっこんだとき、良の指が、何か固いものにさわった。いぶかしげに、それをひっぱりだし、良は、ますます不審にたえぬように、自分の手がひきだしたものを見おろした。折りたたみ式の、かなり大きなナイフなのだ。なんでこんなものを持っているのだろうと、いじりまわしているうちに、ぱちんと音を立てて、刃がとびだした。  ぎくりとしてベッドをうかがう。滝は呻き声をあげて寝がえりをうち、苦しそうに首をふったが、目はさまさなかった。良は刃を見つめ、ふっと眉を寄せた。  刃が汚れている。少年の目が細くなった。気をつけて、指のさきで汚れにふれて見た。 (刃こぼれ)  指をそっと鼻に持っていって、かいでみる。機械油の匂いがはっきりとした。 (……?)  良の眉がけわしくなった。良は警戒を忘れ、ナイフをにらみつけるようにしながら、その場に立ち尽した。  なにか、奇妙な、驚くべき考えが、──何か異様な恐ろしいものをはらんだ考えが形をとろうとしているのだ。 (なんで、機械油が──なんで、パーティの服にこんな……) (車) (ブレーキの故障──何かで読んだことがある……) (事故) 「あ……」  鋭い叫びが洩れそうになったのを、やにわに良は自らの掌で口をふさいだ。みるみる、目が見開かれ、虹彩のまわりにぐるりと白眼があらわれた。顔から血の気がひき、まわりが真暗になり、その場にくずおれてしまいそうな気がした。ナイフが力の抜けた手からころがりおちる。良はよろめいた。  だが、良は、倒れはしなかった。かわりに、まるで金縛りにあったようにその場に凍りついた。目は、宙を貫くようにすわっていた。どのぐらい、そうしていたのかわからない。  やがて、良はのろのろとかがみこんだ。ナイフを拾い、刃をおさめる。少し考えて、自分のステージ衣装の一着のポケットにそっとナイフを落しこみ、たんすをしめた。その唇に、ふいに、かすかな笑いがうかんできた。 「あ……夢か……」  ベッドで滝が呻いた。つづいて、はっとした声で、 「良──?」 「ここだよ」  良は落着いて答えた。急いで着更えた服をまたぬぎすて、パジャマに着更えながらつけくわえる。 「ちょっと着更えてたんだ。いま、行く──起こしちゃった?」  良の声は平静だった。うろたえたような滝の返事をききながら、良の唇にうかんだ微笑は消えなかった。  妖しい、なまめいてすらいる微笑。──それは、猫の笑いだった。 [#改ページ]     30 「もういいの?──ジョニー」  RTVのディレクターの三田が、かるく滝に顎をしゃくってみせた。 「元気そうじゃないの、かれ」  何となく、不満のような声のひびきである。サングラスの奥で、滝の目が、奇妙な光をうかべた。  結城修二の死から、二週間が経過していた。高名で美貌で家柄のよいこの売れっ子作曲家の突然の事故死を、驚倒して騒ぎたてていた芸能週刊誌の見出しからも、早くも結城の名は消えている。 (去るものは日々にうとしとは云うものの、先生のような人でさえ……)  ひとりその美しい面影、精悍な微笑、を忘れかねているのは、かえって滝だけであったかもしれない。  そして、今夜が、しばらく休みをとっていた良の復帰後の初仕事ということになるわけである。 (良……)  台本を手に持ったアシスタント・ディレクターと打合せをしている良を滝は同じ奇妙な目つきでちらりと見やった。三田がその視線を追った。 「まあ元気で、よかったんだけどさ──もっとしょげてるかと思って心配してたから……だけど……」  三田の語調は妙に割り切れないようである。 「意外に、その──立ち直るの、早いんだねえ。いや、つまりさ……あれだけ、先生、先生、云ってただろ」 「わかってますよ、だけどね」  滝の口調だけは以前と少しも変っていない。 「あの子は、歌手なんです。人間である前に、アイドルですよ。偶像なんです。ああいう記事を書いて貰ったおかげで、ずいぶん慰めの手紙や贈り物が来ましてね──」  ああいう記事、とは、写真入りの「あのジョニーが恩師の事故死に号泣! 感激のパーティ席上から、一転の悲報に涙、ただ涙」という『ライト』誌の記事のことだった。 (不遇な家庭に愛に餓えて育ち、いまはその両親さえない天涯孤独のジョニーをあたたかくつつんでくれたのは、結城先生のやさしい愛情だったのに。ショックのあまり泣きくずれたジョニーは、『もう芸能界を引退します』とまで!)  滝は首をふった。 「それを見ていて、ようやくあの子にも、自分の立場への自覚がわいてきたんだと思いますよ。あの子を愛し、待ちこがれていてくれる何万人というひとがいるんだってこと──これまで、まああの子自身は、野心もない、別に自覚もなく、ただ流されるままに来ただけですからね。やっぱり、いまいちばん辛いのはあの子じゃないですか。ただ、もうこれ以上涙は見せていられない、もう、笑ってみせなきゃならない、ってことですよ。家では、まだいつものあの子じゃない」 「そう云われると、なんだかばかに健気で、いじらしいけどさ」  三田はにやりと意味ありげな笑い方で滝を見た。 「相変らず、食えない人だね、お前さんは。あんたぐらい、うまいこと云いくるめる人は見たことがないよ。おれにそれだけの口がありゃあ、いまごろは総理大臣ぐらいなってるんだけどな」 「冗談云っちゃ困りますよ。私はね、ここんとこ、もう私もおしまいだとそればっかり考えているんです。先生があんなことになられてから、もうがっくり来ちまいましてね。良の新曲を頼む人をさがす気にもなれない」 「良ちゃんならともかく、なんで滝チャンがそうしょげるわけよ」 「あたしゃ、結城先生という人に首ったけだったんですよ。良よりも、私の方が惚れこんでたかもしれない。あんな、どこからどこまで素晴らしいひとはいなかった」 「おやまあ」  三田も誰にもひけをとらぬくわせ者である。滝を見た目つきには、今度ははっきりとある意味がこもっていた。 「そりゃ初耳だ。おれんとこにきこえてきた噂は、そうじゃなかったけどねえ」 「どういうことです?」 「いやなに──滝チャンがそんなことを云うとは、夢にも思わなかったって話さ。ほんの小耳にはさんだだけだけど、もめてたとか、もめてなかったとか、先生が良ちゃんをこんど作る自分のレーベルの売りものにしたがったとか、したがらなかったとか、それであんたと先生、本土決戦は今日か明日かという間柄だったとか、そうでなかったとか──云っとくけど、おれは、きいたことを云ってるだけだよ。だけどまた、あんたは実にふしぎな──というか運の強い人だって、某所からもきこえてきたね」 「……」 「実に、その──あんたの敵ってのは、つごうよく片付いちまうってさ。前に、ブラッドの竜新吾も事故起こしたねえ。あれ、いろいろ噂もあったからね。巡業で、どうのこうの──ずいぶん古い話になっちまったが。別にあんたがどうこうって云ってんじゃないけどさ、なんてまた運のいい人だろうって──超能力の一種かもしれないね」 「何が云いたいんです、三田さん」 「いや、いや、何も」 「わるい冗談はよして下さいよ。こんどのことで一番悲しいのはこの私なんだ。良を慰める前にこっちががっくりしちまって、世の中がまるで廃墟になっちまったみたいで──」 「すてきな男《ひと》だったものねえ。おれも、そう深く付合っちゃいないけど、きいたときにゃ、目の前がまっくらになったものね。もっと百年も千年も、永遠に若々しいままで生きるひとのように思ってた。しかし考えてみりゃ、この方が結城さんらしいかもしれないね。四十なかばってや、男盛り──運をきわめて、名声はなりひびいて、良ちゃんみたいな子を手に入れて、光輝く絶頂でさっと消えちまうってのも──あのひとの、老いぼれたところなんか、想像できなかったもの。そういや、あんた、先生の葬式に来て、目を真赤にしてたんで、みんなぶったまげたんだってね。鬼の目にも涙、なんてっちゃ、わるいがね」 「私だけじゃない。千田麗子さんが泣きくずれてた。黒いドレスに、白い菊の花束を持ってね。云っちゃなんだが、こわいようにきれいだった、なまめかしくて──三輪さんも、瀬川女史もきてましたよ。キリスト教式だったんで、三輪さんが白崎さんのパイプオルガンで讃美歌を歌ったんだが、途中で泣いて歌えなくなっちまってね。みんな泣きましたよ。あれだけ代々の恋人たちが悲嘆にくれて集まってくるっていうのは、ちょっと先生以外には無理ですね」 「まったく、男でも惚れぼれして、やく気も起こらんような貴公子だったからな。良ちゃん、葬式に行かなかったそうだね」 「行けなかったんですね。行ったら、ほんとうに、もう先生がいないんだって信じなきゃいけない、そんなのいやだ──そう云ってました」 「みんな、一時は、後追い自殺でもやらかすんじゃないかと気にしたんだよ。何しろ、あれだけ公然の仲だったし──それに何てっても、お似合いだったものねえ。まるで絵の中の恋人どうしみたいだった」 「案外、みなさん、良の奴が、自殺しない、発狂もしない、出家もせずに歌手をつづけてるってんで、がっかりしてるかもしれませんね。わかってますよ。みなさんにゃ、所詮ひとごとですからね。成行きがドラマティックになった方がいいに決まってるんです。しかし、私は、そうはいかない。私と結城先生のあいだがどうだというゴシップが流れていたか知らないが、先生が亡くなっていちばんショックなのは私だ、先生の強力なバックアップもすべてパーですからね。しかし、私は、このロスを何とかしてメリットに変えてみせますよ。先生のためにもね」 「その点にゃ、あんたにはぬかりはあるまいよ。また、先生の死の打撃に耐えてはばたく不死鳥・ジョニー、とか、なき師に捧げる涙の大ヒット、涙のポップス大賞とかやるんだろう。ご心配なく、もうあんたのおそろしさは業界じゅうに知れ渡ってる、あんたにたてついて三回目の事故をひきあてようなんてばかは、絶対にいやしないよ」 「三田さん、それじゃまるで私が──冗談じゃないですよ。云っていいこととわるいことがある」 「冗談だよ、冗談。ほら、良ちゃんがこっちに来るよ」  二人はあわてて口をつぐんだ。ちかづいてきた良は、デニムのジャンパーに色あせた細身のジーンズをはき、前に結城に買って貰ったチェックのシャツを着ていた。目の下がぼうっと紫色にかすんでいるのが、ひどく色っぽい。 「やあ、良ちゃん、打合せおわったの?」  あわてたように三田が云った。良はうなずいた。 「うん。ずいぶん、話しこんでましたね」 「いろいろとね。これで、もうリハまで休んでいていいよ、きみは」 「そうします。行かない、滝さん」 「ああ」  三田に苦笑してみせてその場をはなれながら、ふっと、滝は眩暈のようなものを感じていた。良の笑顔が、あまりにも自然で、ふわりと明るかったからだ。内心では、三田の云うことを彼くらい、はじめから、ひしひしと身にこたえて感じているものはないのだった。 (二週間──いや、そうじゃない。マンションにこもったり、海岸へ静養に行ったりしながら、良は、あの先生のなきがらを見て卒倒した夜以来、一度も涙を見せていない。目をはらしていたこともない──いや、記者会見をしたとき泣いた。一週間、泣きとおしていたようなやつれた顔で、黙ってしゃくりあげて、すっかり同情を集めてしまった……だが済んで帰ってきたときには……いったい、奴は──何を考えてるんだ?)  それは、滝の予測し、かまえていた、どんな反応ともちがっていた。あれだけ慕っていた結城を、亡くなってまだ一カ月はたっていないのに、ときとしてもう良はそんなひとの存在をきれいに忘れ去ったかに見えるのだ。  そういう良なのだ、とも思ってはいたが、それにしても早すぎるのと、それに滝の心からは、奇妙な異和感が消えてはいなかった。良の本来の冷淡さ、情のうすさ、軽薄さ、が早くも結城を忘れさせたというのとは、良の態度がどことなくちがうような気がするのだ。 (あの晩のあの悲しみよう──ほんとうに身も世もない、母親に死なれた幼児のように、どうしていいのかわからない、それこそ後追い心中をしかねない悲嘆ぶりだった。それを──)  結城を恋うて泣きくずれる良を、滝は、むりやりに、犯してしまった。良の心から決定的にしめだされた恐怖に、そこまでむごくなってしまったのだ。だが、夜が明けたとき、良の態度はがらりと変っていた。 (あのときからだ)  良は辛そうに、ベッドに戻ってきて、ゆっくりと身をよこたえた。また泣くのではないか、と気にしてのぞくと、良は大きな目を見開いて彼を見つめた。 「どうした……」  できれば、わびたかったのだ。頭が冷えると、愛人を失い、庇護の手からはなれたばかりのこの頼るところもない少年に無法にも力ずくで自らの欲望を受け入れさせたことが、さすがに後味がわるかった。だが良は彼を驚かせた。良は、力なく目をつぶり、 「──いたい」  と小さな、甘えるような声で囁いたのである。  ふいに滝をおそったつきあげるような恐怖と何かの予感──それは幽霊を見る予感だったかもしれぬ──は、驚きと狂喜の、よみがえるような甘さの中に消えてしまった。むしろ、強いてひそめられたのだ。 「いま、手当してやるよ、良──済まなかった、許してくれ」  うろたえて、彼は立ちあがろうとしたが、良がまた小さな声で呼んだ。 「ん?」 「大丈夫──ここにいてよ」 「良──」 「ここに来て」 「なんだ」 「来てよ」  滝は良のベッドの傍にかがみこんだ。良は目を見開き、じっと滝を呑みこもうとするかのように見つめて囁いた。 「滝さん──ぼくをすてないでね」 「良!」 「ぼくを見すてないでね──ぼくからはなれないでね、どんなことがあっても?」 「良──何を云ってるんだ!」 「ぼくはもう──ここでなかったら、何にもないんだ──うちも、お金も……友達もないし──先生が滝さんにマネージャーをやめさせようとしてたなんて──何にも──知らなかったんだよ。知ってればうちを出るなんて、云いやしなかった──信じて、ね?」 「信じてるよ」  滝は良を抱き寄せた。 「もうそんなことは云わんでいい。何も心配するな。これでいいんだ。おれがお前をすてるだって? お前からはなれるだって? どうしてそんなことを云うんだ? すてないでくれと頼むのはおれだ。おれはもう──お前なしじゃ生きていけないよ……スターとマネージャーだからというだけじゃない。こんなことは云う気にもならなかったが──愛しているんだよ、良、ほんとうだ。おれはあんまり不器用で──うまく云えずにきたが……でも愛している。ずっと、可愛くてたまらなかった……もう誰の手にも渡したくないんだよ、良──」 「知ってたよ……」  良はゆっくりと目を閉じて、滝の強い手に抱きしめられるままになった。滝は熱いものがこみあげて来、頬をすり寄せ、腕に力を入れた。  何か、異様な驚きとむしろ恐怖に似たものがひそんだ昂ぶり、長い悪夢からさめたと信じてあらたなもっと深い悪夢の相の中に踏みこんでゆくものの感じる本能的な恐怖はあったが、かえってそれは滝の心を金縛りにした。  あれほど慕っていた結城が死んだ翌朝には、彼に庇護を求めてくるのか、という不快な驚きは、これでようやく、またもとのおれと良に戻れるのだ、という思いの中に押しひそめられた。 (これでいいんだ。これで……)  滝は逆流して彼を呑みこみそうなすべての思いから目をそらし、われから甘い毒の味のする悪夢の中にのめりこんでゆこうとしているのだった。 (おれなどは、どんな罪をひきうけてもかまわない。ただ良さえおれのもとにいるならば……)  はらった犠牲の大きさから目をそむけながら、滝が甘やかな感傷におぼれこもうとしたときだ。 「これでいいんだ……」  低く、良が云った。滝は何となくぎょっとして、少し腕をはなし、良をのぞきこんだ。  良は、かすかに笑っていた。  滝の血がふいに冷えた。強いて目をそらしてきたものに、真正面から向きあわされた恐ろしさがあった。良の目がゆっくりと睫毛をしばたたいて、すぐに笑いをひっこめ、可憐な表情を作って、滝を見あげたが、表情の変る一瞬にその目が冷たく、無機質のきらめきを帯びて遠かったのを、たしかに見たと滝は思った。 (良……)  疑惑と不安が滝をとらえた。良の変容には、なにか底知れぬぶきみなものがあった。 「どうしたの?──」  両肩に手をかけたまま、呑まれたように動かなくなった滝をいぶかしむように、良が云った。滝は息を呑んだ。 「いや──」  いくぶん、ためらいがちな手で、良の髪を撫で、布団を直し、頬を撫でてやる。 「何でもないんだ……」 (気のせい──だろう) 「そうだとも……これでいいんだよ──良……」  滝は頭をさげて、良の小さく開いた唇に接吻した。 「しばらく、ゆっくり休むといい。誰も、怒るものはいない。いいだけ休んでもかまわないんだよ。もしそうしたかったら、どこかへ旅行してもいい。ちょうど気分転換になるし──」  ふふっと、良が笑ったので、滝は鼻白んで口をつぐんだ。 「何?」 「滝さんたら──急になんだか……ばかにやさしくなったんだね」  滝はわずかにうろたえた。 「おれは──」 「ぼくのこと、可哀そうだと思ったから?」 「いや──その……別にそんな……」 「いいんだよ、ぼくなら──きっとすぐ元気になるよ」 「そうだな」  滝は吐息をついた。 「もう、休めよ」 「うん」  良はおとなしく目を閉じる。それをおいて、いささかほうほうの態で居間に退却してきたときに、突然、その電撃は彼を打ちのめしたのだった。 (|ナイフ《ヽヽヽ》)  瞬時に、滝の顔から血の気がひいた。 (すっかり──忘れていたが……そういえば一体、あのとき、どこへしまったろう……)  結城の車は、横転したあとエンジンに引火して爆発し、なかばめちゃめちゃになっていた。特に機関部は大破していたので、検証でも何ひとつ、滝のしたことは疑いも持たれずに済んだ。それもあってつい失念していたが、あのときは滝の気持も乱れ、とうていいつもの彼ではなかった。  そのためだろう。ベンツの下に這いこみ、ブレーキ・ホースを切断してから、手に持っていたナイフを一体どうしたものか、まるっきり覚えがない。 (まさか、あそこに落して来たはずはないが)  きっと無意識にポケットに押しこんだのだろう。そう思って、寝室のドアがしまっているのをたしかめてから、あわただしく洋服だんすに走り寄った。きのう着ていた背広を取り出し、震える手でポケットをさぐる。どこにもなかった。  滝の頭の中が真空になってきた。ポケットというポケットを何度となくひきずり出して裏がえしにし、それとも他の服かとそうでないことはわかっていながらありったけの服をあらためはじめた。ない。 (車の中か──いや、そんなはずは……パーティの席に落したか、ガレージに落したとすればもうおしまいだ──あのときは、どうかしていた。指紋もついている、刃もぬぐってもいない。といって──)  ホテルに電話をかけて、駐車場にナイフが落ちていなかったかなどときけようか。滝は冷たい汗がにじみ出すのを感じ、気が遠くなりそうだった。 (あれが万が一、警察の手に入っていたとしたら──いまごろは、ひそかに、包囲の網がせばまっているのだとしたら)  滝はいきなり持っていた背広を放り出して窓ぎわに走り、見おろした。平静な昼さがりの町並には、隠れひそむ刑事の姿も別に見当らない。 (でなくても──誰か……)  とっさに、脅喝の方へ頭が働いたのは、おそらく彼自身が何回となく、そうした脅喝まがいの手管を切札として使い、そのききめをよくこころえていたからだろう。 (破滅だ)  滝ほどに、したたかに身を処してきた海千山千の男でさえ、殺人罪というのは冗談ごとでは済まなかった。ブラッドのときは、何といわれても、実際に何もした覚えはないからへらへらと受け流していられたが、こんどはまぎれもない第一級殺人罪が成立する。わるくすれば無期か、死刑なのだ。滝は必死になって、あのときナイフをどうしたのだったか、確実なところを思い出そうとした。だが焦れば焦るほど、頭は空白になってからまわりするばかりだった。 (あ……)  幻影におののいて、滝は立ちすくんだ。が、すぐに、また、たんすにかけより、服を改めはじめる。なんとしても見つけて、処置してしまわねばならないのだ。車が大破している以上、あのナイフだけが、滝俊介は殺人者であるという歴然たる証拠なのだった。 (あのときおれは気が狂っていたのだ──万一、あそこに、誰かがいて、一部始終を見ていて、そしておれの落したナイフを拾って隠しておいたのだとしたら)  あのときは、良と結城とを共に死に追いやり、そのあとすぐ自分も死のうと思いつめていた。だが、はからざるゆきちがいから結城ひとりを犠牲にしたかたちになり、なにも知らぬ良がやはり滝に頼るしかないと彼のもとへ戻ったいまとなっては、滝は破滅が恐ろしかった。  卑怯、未練と云われようとかまわない。良ひとり残しては、死ぬにも死ねないのだ。良から結城を奪ってしまった彼には、無防備な何も知らぬ良を守る義務がある。 (何も知らぬ……)  ふと滝の胸の中に、いかの墨のようにもやもやした不安がわきあがってきた。そのとき、寝室のドアがあいた。 「良!」  室じゅうに服をちらかして、文字どおり滝はとびあがった。 「な──何だ、どうしたんだ、お前」  覚えず声が震えていた。パジャマ姿の良は、びっくりしたように滝を見た。 「水飲みに──どうしたのこれ」 「いや──あの、ちょっと整理しようと思ってな」  滝はかろうじてごまかしながらも、自分の膝がゴムのようにくだけかけてぶるぶる震えているのを感じ、いったいいつからこのおれは女のような臆病者になってしまったのだろうとふしぎに思った。良を怖れることがあろうなどと、夢にも思ったことはなかったのに。 「ふーん──変なの」  良は興味なさそうに云いすてて台所に入り、水をくんでうまそうに飲んだ。滝は喘いだ。 「お休み」  良は云って、欠伸まじりにそのまま寝室に入っていこうとする。滝は思わず呼びとめた。 「良──」 「うん?」 「お前……」  そこではっと滝は我にかえった。一体、何をきくつもりだったのだろう。 (良、お前──おれが結城先生を殺すときに使った折りたたみナイフを知らないか? たしかにこの服のポケットに入れたと思ったんだが!)  滝はヒステリーのように笑い出したい衝動をかろうじておしこらえた。 (しっかりしろ──破滅だぞ!) 「何よ」 「いや、何でもない。眠れそうか?」 「うん、まあね」  良は上目づかいで滝を見、ばたんと寝室のドアをしめた。その目にわずかながら隠しきれぬ嘲弄のきらめきを、瞬間見てとった、と思ったのは、滝の気のせいだったろうか。 (あ……!)  滝は立ちすくんだ。 (まさか……)  それは、考えるのも恐ろしい可能性だった。だがたしかに、いま、良の目は、奇怪な凄惨な、勝利と揶揄の光を帯びてはいなかったか? (気のせいだ。きまっている、あの子はまわりのことにはあまり興味のない子なのだから……まさか──)  強いて、良の一方の特長である異様な勘の鋭さ、という事実から目をそむけて、滝は自分を納得させようとした。 (それに……いくら良でもそこまでは──あれっきり、良のようすに、変ったところがあるわけでもないし……)  親しい記者の情報網でも、別に、結城修二の死を事故でないのではないかというような声は一切きかないという。結城は腕自慢で、あの夜も百キロ近く出していたらしい。パーティでかなり酒が入ってもいた。そのための居眠り運転、と見られてもう検死報告も完成しているという。 (何も心配することはないのだ、何も──万一、誰かの手にあのナイフが渡っていたとしたら、もういいかげん何か云ってきそうなものだし、いや……何か云ってきたところで、それはたしかにおれのナイフだが紛失したのだと、白を切っていれば済むではないか。いまになって、そのナイフであれをやったという立証はできっこないんだ──そうだ。おれの弁舌があれば、どうにでもごまかしがきくはずだ……)  スキャンダルやあいまいな噂で傷を受けるような滝俊介でもない。そう思って、無理に安心しようとしたが、良のあまりに早いいたでからの回復、かえって不自然なほどのほがらかさを見ていると、どうしても、殺しても殺しても出てくるあの疑念を感じぬわけにはいかないのだった。 「あーあ、ひさしぶりの仕事だけど、やっぱり楽しいね」  控え室に戻って来ながら良は屈託なく云っている。 「気持がひきしまっていいや──二週間もブランクにすることなかったんだ。ミッちゃんにきいたけど、すっかり、ヒットチャートから落ちちゃったってよ、『ラブ・シャッフル』。ちょうど、新曲出す前の谷間だったしね。挽回しなくちゃ」 「お前から、そんな積極的なことばをきくとは思わなかったよ、良」 「あれ、どうして? 嬉しくないの?」 「そりゃ、嬉しいが……だが……」 「『別れのエチュード』ね、スパートがかかれば、話題もあるし、ベストヒットになる曲だと思うんだ。売り方が問題だけどね──まかしといてよ。きょうが、テレビでの初披露でしょ。ここで、ガーンて、差をつけてやるからね。いま、他にこわいブームの曲ないし」 「何をやる気だ、お前」 「見ててごらん。あ、隆」  良は笑いかけた。 「もう、着更えるの?」 「うん。云ったの持ってきてくれた?」 「ああ」 「じゃ着更えよう」  良はするりとジャケットを肩からすべり落した。素早く、服をぬぎすてると、ほっそりした白い裸身があらわれる。  妙にはしゃいでいる、と滝は思った。 (これまでの、良とちがう──何が起こったんだ……やっぱり──|あれ《ヽヽ》なのか?)  おもてだって、お前はまさか知っているのでは、とどうしてもきけぬだけに、滝の疑心暗鬼は苦しかった。 「おい、そんな古いの着るのか、お前」  しばらく見ていたが、びっくりして声をかける。良のすべりこんでいるステージ衣装は、もう一年前に作った、黒のシルクのブラウスと黒のパンタロンだった。 「黒なら、あのビニール・レザーも、衿が組みひもになってるやつも、スパンコールのもあるじゃないか。なんでそんなの着るんだ」 「滝さんは黙っててよ」  良は冷やかに云った。滝は息を呑んだ。その服は、金のチェーン・ベルトをたらしてようやく華やかにするものなのだが、良は白のエナメルのベルトをしめた。 「良、お前!」 「黙って、見てろってば」  良は隆のあけたアクセサリーの箱から、銀にルビーのついた、結城とお揃いで有名だった指輪を指にはめた。 「おい、衿に、金のユリの花をつけるんじゃなかったのか」 「うるさいなあ」  良は髪をかきあげて隆に顎をしゃくった。隆が、良の首にまわしてとめてやっているペンダントをみて、滝はとうとう表情をけわしくした。それはかなり大きな銀のロザリオだったのである。 「おい、良、お前、そんなわざとらしい恰好で……」 「わざとらしくなんかないだろ」  良は生意気な口調で云った。 「あなたらしくないね。利用できるものはたとえどんなことでも利用する、これがあなたの方針じゃないの? テレビで、このかっこうを見りゃ、何も知らないファンは、ああ、可哀そうにと思う。あなたを知ってるひとは、ああまた滝だと思うさ。あとそのコスチュームに生命を吹きこむのは、ぼくの演技力!」 「おい、良!」 「メークしてくる」  良はひらりと身をひるがえしてドアの向うに消えた。残された滝は口中なんともいえぬ不快な苦さを感じ、隆をにらみつけた。 「隆──あれは良の考えついたことか」 「そうですよ」  良のぬぎすてたものを片付けながら、無表情に隆は答えた。 「なぜ止めなかった」 「止める──どうしてです?」 「あんなわざとらしい──いやらしいことをはじめやがって」 「いいじゃないですか」  隆は淡々と云った。 「ファンははげたかですよ。結城先生が親代わりだったときいてからは、どんなに良ちゃんが悲しんでるか、どんなに打ちひしがれてるか──それを見ようと楽しみにしているんです。良ちゃんは、そんな中で、居直るしかないと悟ったんでしょうよ。ぼくは、いいと思いますよ。良ちゃんは可哀そうだ。どこまでやれるか──どうなろうと、とことん見届けてやる、そういう気になってきました」 「隆! お前らしくもないことを……」 「別に、ぼくらしくすることにこだわることもないでしょ」 「まったく──」  滝は荒々しく舌打ちして吐きすてた。 「どいつもこいつも、調子狂いやがって」 「そんなことないですよ。滝さんこそ、滝さんらしくない。いつもなら、こんなこと滝さんが最初に考えつくはずですよ……どうしてそんなに潔癖になったんです? そこまで、結城先生に惚れてたんですか?」 「隆! 殴られたいか!」  滝は激昂した。隆は首をすくめた。 「隠そうたってだめですよ。滝さんは、先生のことだと、ばかにむきになるんですね」  滝はうろたえた。それを見て隆がにやりと笑う。やっきになって滝が云いかえすことばをさがしていたとき、メーク室のドアがあいて、良が出てきた。 「──あ!」  滝ははっと息を呑んでいた。メーキャップをしに入っていった良と、まるで別人かと思えたのだ。が、すぐに気づいた。 「良──なんでお前は、そんな……頬紅をつけなかったな? それにマスカラを──なんだってそんなメーク……」  気づいて滝は黙ったが、たまらぬ不愉快さにむかついた。青い顔をして、大きな目をうるんだようにぼんやりと見開いた良は滝を見あげた。 「何怒ってるの?」  声にまで、涙がたまっているような感じだ。と思ったとたん、良はにやりと笑った。まるで、目の前でひとりの人間が別人に入れかわったようなうす気味のわるい、完全な変貌ぶりだった。 「そんなすぐマスカラってわかる? ねえ隆?」 「素顔を見てるからね、こっちは。でなけりゃ、大丈夫、わかんないって」  隆はしげしげ眺めながら云った。 「へえ──うまいメークだな。ほんとの隈と全然かわらない」 「でしょ?」 「それに何てのかな──そうやってると、メチャに色っぽいや」 「こんなもんじゃないんだよ、まだ」 「大した演技派だな、おい?」  滝はむかむかしながら怒鳴った。 「隆まで──何てことだ。いいか、おれはお前をそんなあさましい奴に育てた覚えはない。そんなことは許さん、早くメークし直してこい。もう時間がないぞ。それがどんな非人道的なことかわかってるのか」 「へえっ」  良と隆が同時に笑い出した。 「あんたから、非人道的だなんて云われるとは思わなかったなあ」  良は冷笑した。滝は愕然として良を見つめ、そしてあの疑念がやにわに胸中にこりかたまるのを覚えて、口をつぐんだ。 (知って──いるのか? まさか──だが……いや……) 「今西さん、お願いします」  ADが呼びに来る。 「あ、はい」  良は立っていった。隆とふたり控室に残され、滝は、胸中の思いを口にすることもできずに呆然と立ち尽していた。 「きれいだなあ。喪服の女は色っぽいというけど──女よりずっとですね……『別れのエチュード』ベストワンは、貰ったと同じだな」  隆が感にたえたように云う。 「なんだかまた、一段と色っぽくなったな」 「おい、隆」  滝の声の調子が変った。 「お前──ずいぶんと、でかい口をきくようになったじゃないか……前のお前は、そんなしゃあしゃあとしたことを云う奴じゃなかったぞ」 「いいじゃありませんか。人間、自分の思ったことを口に出す権利ぐらいはあるはずですよ」  隆は平然と云った。 「それに──何も、良は滝さんの私有物ってわけじゃなし──色っぽいとぐらい、云ったって何も怒ることないでしょう」 「隆!」  ふいに滝の咽喉に何かのかたまりがつかえた。 「きさま──まさか良と……」 「何です?」 「寝たんじゃないだろうな……」 「だったら、いけませんか?」  滝はわめき声をあげてつかみかかろうとした。隆は敏捷に身をよけた。 「たいして、何回もじゃないんです」  滝の逆上をなだめるように隆は云った。 「それに、良から、ぼくのところにとびこんできたんですよ。淋しくて、死にそうなんだって──ぼくは、良を愛してる。抱いて、はっきりわかりましたよ。あの子は、可哀そうな子なんだ」 「きさまは、くびだ」  滝は喘ぐように云った。隆は首をふった。 「別に恋人の、保護者のって──結城先生のあとがまなんてことは夢にも思ってませんよ。いいじゃないですか──良だって、あの子のためにどんなことでもするし、何も云わず見守ってるような人間がまわりにいた方が心強いでしょう。良は、いま、翔ぼうとしているんですよ──ぼくは良のすることなら、神さまのいうことと同じに受け入れます。とことん、生命を捧げてみたい、そう決めたんです。ぼくは、良から、はなれませんよ」 「きさま……」  滝は憤怒のあまり口がきけなくなった。 「きさまのような──きさま……」 「それに──良が云っていましたよ。滝さんはぼくをやめさせやしないってね。ぼくが、滝さんが怒るからって云ったときに──ぼくが誓うけど、滝さんはやめさせない、だから今夜だけそばにいてくれって……云っとくけれども、誘ったのはあの子の方なんですよ。力ずくで暴行したりしたわけじゃない」 「もういい──」  滝は呻くように云った。 「ここを片付けといてくれ」 (滝さんはやめさせない──ぼくが誓うけど……)  滝の頭の中で、何か恐ろしい氷がはりつめてゆくようだった。滝はよろよろと控室を出た。自分が何をしているのかさえ、半ば無意識だった。 (知っているのだ。あいつは取って──ナイフを隠したのは、良なのだ……) 「滝さん、気分がわるいの?」  誰かに声をかけられたが返事もせず、気づいたとき、彼は誰もいないスタジオの前のソファにがっくりと沈みこんで、両手で頭をおおっていた。 (罰だ──おれへの、罰だ……結城先生を殺した、おれへの……)  壁に、空中からあらわれた手指が描く審判の炎の文字──メネ・メネ・テケル・ウパルシン──を目のあたりにしたものの畏怖が滝をうちのめした。彼は時間の感覚も失っていた。  どのぐらい、そうしていたのだろう。賑やかな音楽と人声にはっとして、滝は顔をあげた。 (はじまったのか)  壁のモニター・テレビから、スタジオで収録中の歌番組のオープニングが流れてくる。可愛いアシスタントの女性タレントをひき連れたベテラン司会者が、何やら歯のうくような台詞を並べていた。  今夜のゲストがひとりずつ登場しては、短いやりとりをし、にっこりしてみせてひっこんでゆく。 (良は、トップか) 「もう何も申しません。全国のファンがひたすら気にかけてこの人の再起を待ちこがれていました。ようやく恩師を失ったいたでに耐えて涙の再起! お待たせしました──ジョニー!」  司会者が大袈裟なしぐさで手をふると、わあっと異様などよめきが起こった。スタジオに入れたファンたちの絶叫である。 「ジョニーッ」 「良ちゃーん」  叫び声と拍手の嵐の中を、バック・バンドが耳馴れた『裏切りのテーマ』のイントロを奏して、黒衣の良が階段の上に姿をあらわしたとき、さっと四方のライトが良のすがたをとらえた。 「ジョニー!」  司会者とアシスタントが両側からいたわるようにして、良をまんなかに連れてくる。ぼんやりと見ていた滝は思わず目をすえてカメラの中の良を凝視した。なんといういたいたしい表情だろう。顔は青ざめ、やつれている。のどもとのロザリオがちかりと光る。  目の下が黒ずみ、二週間泣きつづけていたような可憐な表情で、むりに笑おうとして口もとをゆるめているのが、うるんだような目とそぐわず、なんともいたいたしい。 (良!──)  百も承知でいながら滝は胸がいたくなった。 (なんという顔をするんだ!) 「今西くん──だいぶ、痩せたんじゃありませんか?」 「いえ……そんなことありません」  良は弱々しくほほえんでみせる。それを非情なカメラがさっと大写しにとらえる。 「ファンにひとこと、挨拶して下さい」 「はい」  ハンドマイクを受け取り、良は一生懸命勇気を出しているという顔でまたほほえんだ。 「みなさんご心配をかけて申しわけありませんでした。もう大丈夫です。みなさんのはげましのお便りや慰めて下すったことは、ぼくにとって、これまでの人生でいちばん嬉しかったことでした。親代りの先生が亡くなって、ほんとうにひとりぼっちになってしまったと思っていましたが、ぼくにはファンのみなさんがついて見守って下さっていることをはじめて知りました。結城先生の霊のためにも、ファンのみなさんのためにも、ぼくはもう悲しんでいるばかりでなく、歌手としての青春に賭けてみようと思っています」  声はときどきかすれ、とぎれた。アシスタントは貰い泣きしていた。調子のいい司会者も厳粛な顔をする。 「では、皆さん、ぼくの歌をきいて下さい。新曲です。これも結城先生の作って下さった曲です。この曲の発表パーティのあとで先生は事故にあわれ、先生のさいごの曲になってしまいました。今日はじめて皆さんの前で歌うこの曲を、ぼくの兄であり、父であり、師であった結城修二先生に捧げようと思います」  良はまた、けなげなほほえみをうかべた。司会者がひきさがり、バック・バンドが哀愁を帯びた印象的なイントロをかなではじめる。良は歌った。  しみいるような、結城ならではの美しい旋律が滝の心にしみこんできた。良の声はときどきかすれたが、それがかえって哀切だった。滝が少し安心したとき、うしろから隆が肩を叩き、となりに腰をおろした。 「スタジオに入らなかったんですか。──いいですね」 「ああ」  ほろ苦く、滝は答えた。この若造も良を抱きしめ、良の唇を奪ったのだ。一体なぜ、おれがあれほど好きだった結城を殺したと思うのだ。何のためだ、と滝は考えた。そのとき── 「あ!」  良の歌声はとだえていた。滝の眉がぴくりとひきつった。良の目に涙があふれている。良は懸命に涙を飲み、歌いつづけようとするのだが、しゃくりあげるような息づかいがマイクにひびいて、歌えない。とうとう、涙が頬にこぼれ落ちた。 (良!) 「良ちゃんっ」 「可哀そう」  ファンの絶叫がとんだ。 「がんばってえ」 「ジョニー」  袖から、きょうのトリをとっている堀純一がとび出してきた。肩を抱きかかえ、慰めるように、背中を撫でてやる。それにはげまされて良は歌いつづけようとするのだが、あとからあとから涙はあふれ落ちた。とうとう絶句して堀の胸に顔をうずめ、良が泣きじゃくった。  歌なしのバンドが美しいストリングスをひびかせながらエンディングをかなでおわらぬうちに、わあっと大波のような拍手がステージをゆるがした。  堀に支えられて頭をさげる良に、また拍手と歓声がおしみなくあびせられる。ファンは、堀もまた先年に母を失って稚い弟妹と三人、天涯の孤児になったことをよく知っていた。堀が肩を抱いて連れ去る背中に、また感動の拍手がわく。 「……」  隆が、腕を組んで、吐息をついた。滝は、我にもなく、いたいたしい良の悲嘆の、ふしぎな、嗜虐的な陶酔さえさそうなまめかしさに心を奪われて見入っていたが、はっとして、隆を見かえった。隆は黙っている。 (まさか、あの涙は芝居ではあるまい。良として、いかにも自然なことだ。良は──良でさえ──途中から、ほんとうの悲嘆の中にひたってしまったのだ。でなくては──あれが演技だとしたら、あまりにもうますぎる……)  感動のさめやらぬようなステージを少し見ていてから、滝と隆は控室に戻った。良は、いっぺん控室に戻ってきているはずだ。ドアを開いたとき、 「なんだ。どこ行ってたの、二人とも!」  良の声が滝の耳を刺した。良は椅子にかけて、いたずらそうに膝をかかえながら滝たちを見た。 「見てなかったのぼくの」 「見てたよ、モニター・テレビで」 「どう? 感動的だったと思わない?」  手をほどき、ひらりと床におりた良の顔は、涙どころか、いつもより生き生きとさえ輝いて、妖しく火照っている。 「ああ──びっくりしたな。ジョニーは、凄い名優になれるぜ」  隆がその肩に手をかけながら笑いかける。良はくっくっと笑った。 「でしょ? あの拍手きいたあ? もう、『エチュード』が今年のポップス大賞、七分までまちがいないぜ。まあ、まかしといてよ。何が何でもとってみせるからね」 「でも、堀純一も点稼いだじゃないか。『北の岬』はいまトップだぜ。強敵だよ」 「野郎、ひとのお膳立てにのりやがってさ。でも、心配しなくっていいんだ。あんな奴、つぶすくらいわけないからね」 「しかし、良ちゃん──」 「見てろって。もう、ちゃんとあるんだよ。手は打ってある」  うきうきとしゃべっている良を、じっと見つめ、何か無限の恐怖に痺れたようになって、滝は立ち尽していた。  これほど、他の人間を、恐ろしい、怖い、と思ったのは、生まれてはじめてのことだった。しかもそれは十九になったばかりの、花のような美少年──彼が見つけ、彼が育てた、彼の大切な作品なのだ。  滝の目の前で、みるみる良が、黒い凶々しい瘴気につつまれた巨大な悪霊に変容をとげてゆくのを見る思いだった。もう人間ではないのだ、と彼は知った。 (良はもう、人間ではない……ひとの心はすてた、ここにいるのは、一匹の悪魔──人の心を餌に肥え太る、恐ろしい魔物でしかない)  そうさせたのは自分だ。愛に飢えた稚い少年の心からさいごの希望をも奪いとり、生きながらの地獄につき落した彼自身の、その仕打ちが良を変えた。自らの美と蠱惑を知り、その力を存分に利用してぶきみにこの世にはびこってやろうとする、そのためなら人にあるまじきふるまいにもためらわぬ悪魔を、滝は、三年の年月のあとに、世に送り出してしまった。  良は、あれほど愛していた結城の死をも──結城への涙さえも、自らがこの世の栄光を手中にするための餌にしようとしている。 (許せない。この悪魔は、危険すぎる──美しすぎる……生かしておくわけには、いかない)  いまこそが、わが手で生み出した悪魔をわが手で屠るべきとき、さいごの機会であることが滝にはわかった。 (結城先生のためにも……この美しい悪霊を、このおれの手で……)  何をためらうのだ、と滝は自らを叱咤した。お前の力は強く、あの拍手はスター、今西良のフィナーレにふさわしい。あの拍手のなりやまないうちにそのきゃしゃな首を扼せ。指に力を加えて、その首をへし折るのだ。そのために隆になり彼が殺されるなら、それこそ望むところではないか。  結城を思うのだ。あれほどやさしく真実に良を愛したあの太陽のような男のためにも、この少年をこれ以上そのおぞましいいつわりと汚穢と頽廃の中に踏みこませてはならない。  結城の死からまだ二週間で、早くも|そら《ヽヽ》涙を流しながら、夜になれば滝の抱擁を求め、隆を誘惑し、ファンをたぶらかして妖しく微笑している魔物なのだ。もう殺人者になり了った彼が、そのおのれの所業に結末をつけるのに、何をためらうことがあるのだろう。  滝のすべての血管は、はりさけんばかりにがんがんと高鳴り、目の前が血の色のもやにおおわれ、恐ろしい硬直が彼をおそった。彼は良の咽喉だけを見つめていた。  ロザリオのきらめいているほっそりした首。なめらかな、ふるいつきたいような咽喉もとから胸の肌。そこにこの指をくいこませ、こんどこそ彼の生み落し、いまや彼をさえ呑みこもうとまで育ちかけている悪魔を、完全に息の根をとめてしまうのだ。  滝の指が折れまがり、彼はゆっくりと踏み出そうとした。そのとき、ドアがノックされた。 「はい?」  嘘のように、良の顔から生命が消える。入ってきたのは、堀純一だった。 「あ……」 「どう? 良くん?」 「ええ……」  なんというしおらしい、いじらしい表情を、この悪魔は作ることができるのだろう。堀は、いたましそうに、良の肩に手をかけてのぞきこんだ。 「いままで、泣いていたんだね? 可哀そうに……」  堀の目が、やさしい光をうかべている。彼は良の髪を撫で、かきあげてやって、滝に向き直った。 「滝マネ、今夜、良くんを借りていいでしょう。さっき、約束したんですよ──淋しいどうし、一緒に飲んで、慰めてあげたいって……かまわないでしょう。ぼくもいまおわったし」 「もちろん、それは──」  滝はことばを切って、良を見やった。良は、堀の手の下で、じっとうつむいている。大きな目に涙がひそんでいる。睫毛をしばたたき、唇をぎゅっと結ぶ。堀の手に力が入った。 (これが、その手《ヽ》というわけか──ライバルを、自分に溺れこませて、葬ってしまおうというのか……やるだろう、いまの良なら)  滝はしんそこ恐ろしかった。しかしまた、そうしてうつむいている良のほとんど魔力のような妖艶さに圧倒されていた。良は、もはや自分のどんな表情ひとつ、しぐさひとつの効果まで知り抜き、計算し尽しているのだ。  滝の目にふたたび、良ははてしもなく巨大に、底知れずに立ちはだかっていった。良はやるだろう、と滝は思った。良は征服し、君臨し、奴隷にするだろう。  もう、彼などには、どうすることもできない。こうさせたのが彼だからというだけではない。この妖しい、あってはならぬ生物をこの世に送り出したのは彼であっても、もはや、その巨大な悪魔は滝を超えていた。  いま、作品と創造主の位置はゆるやかに、しかし完璧に入れかわりおわった。これからは、良こそが王──神であり、滝を支配しあやつるものなのだ。  頭が痺れたようになって、滝は立ち尽していた。茫然とした彼の目に、良の白い顔が、もの問いたげな瞳が、やさしい唇がうつる。それこそは、滝と、そして良自身とを、あの遠い陽だまりからここまではてしなくいざなってきたかれらの宿命、そのものだ。それはかぎりなく美しく、恐ろしかった。  だが、そのとき、滝の唇に、ゆるやかな微笑がのぼってきた。奇妙なくらい、晴れやかな、そしてむなしい微笑だ。 (悪魔──おれの神……)  そうだ、と彼はひとり思った。何をためらうのだ。良は、その妖しい美と魔力と、もはや抑制するものもない悪魔の心とでもって、ひとの心をあやつり、君臨するだろう。悪魔になればなるほど、良の美しさと魅惑は輝きまさり、ひとを踏みにじり、弄び──その素質はたしかに良の中に、ひそんで解放のときを待っていたのだ。  かまわぬではないか、と滝は思った。それこそは、おれの望んだことでもあったはずだ。おれは夢を見ていた。良の勝利と君臨を──なら、何をいまさら恐れるのだ。もう、見るだけの地獄は見た。おれには何ひとつ、恐れることなどないはずだ。 (ようし! ひとつ、付合ってやるよ、良──ここまで来たんだ。お前の見せる地獄めぐりなど、怖くはない。おれは、滝俊介──人殺しの滝俊介なんだ)  良ゆえにほろびるならそれにまさる至福があろうか。良に与えられるのであれば、どんな苦しみも地獄も、それはそれでわるくない。どうせ、良の手に握られた生命なのだ。 (好きなように料理するがいいさ、良、きれいだ──きれいだよ、ああ、誰よりも……)  どこまでゆくのか、このさだめのはてを見届けてやる、そう心を決めたとき、もはや恐れはなかった。  堀が、ふといぶかしそうにそんな滝を見る。サングラスをかけ直し、滝は穏やかにほほえんだ。 「かまいませんとも──早く、元気にしてやりたいんです。お預けしますから、どうか慰めてやって下さい」  やさしく、良を見やりながら彼は云った。その顔にうかんだ笑みには、照りはえるような遠い夢の残滓が漂っている。彼はゆっくりと、良に手をふってみせて、控室を出ていった。 [#改ページ]   あ と が き [#地付き]栗本 薫  この「真夜中の天使」が文庫本として出版される、というような日が来るとは、私は夢にも思わなかったのです。  この小説が書かれたいきさつ、出版されるに到った経緯、については、文藝春秋刊「翼あるもの」の上巻の前書き、及び下巻のあとがきに、かなりくわしく書いたつもりです。ですから、あえてもういちどここにくりかえすことはしません。ただ、自分でも、一生に一ぺん、まったくの「遊び」として、完全に趣味に走った本を、どこかの隅っこで、ほんの二、三千くらい同好の士のためにひっそりと出すのはゆるされていいのではないか、と思って出したこの本が、自分でギョッとするくらい版をかさね(上下ハード各九八〇円というド高い本であるのにもかかわらず、です)、ついに文庫にというお話をいただいて、しかし文庫となれば、もはや特定少数に読んでもらえばいい、売れなくて結構、わからなくて結構というようなごたくはゆるされません。  これから文庫になったこの本を読んで下さる方々の中には、「ぼくらの時代」シリーズで私を知って下さり、栗本薫とは現代ふう軽いタッチのヤング代表志向の作家、と思っておられる方も、「グイン・サーガ」を読んで下さって、物語作家で何といいますかきわめてふつうの趣味の人間、と解される方もおいでだと思うのですね。そういう方々が、この本を手にとられて感じるとまどい、どううけとめてよいかわからなさ、反発、希望的観測で言えばカルチュア・ショック、やだあー、という気持、それが、私には見える気がするのです。それで、日ごろはそんなものくそくらえと思っているのですが、今回にかぎり、自著解説、というか私からのメッセージを、ここに付しておくことにしました。「翼あるもの」の下巻のあとがきを、ついでに立ち読みしていただけると、もっとよく、私の言いたいことがわかっていただけるのではないかとも思います。  まずお話ししたいのは、これがどういう小説であるのか、ということです。こういう内容をもっているので、この作品くらい、実にそれをうけとるあいての人の心、性格、すべてがあらわれるような反応が、作者の私にとどいた小説は、他にはありませんでした。評論家の石川喬司さんは、これを「たいへん古典的なフランスの恋愛小説」である、と評して下さいました。私の尊敬する大島渚さんは、この小説は、「創造するものと創造されるものの相剋」をえがいたもので、若書きにはよくとりあげられるテーマだが、こんなに力強く書いてあるのはまれである、と言って下さいました。悲しいことも言われました。山藤章二さんは吐気をこらえて読んでるとおっしゃいました(ま、当然ですが)。某先輩作家の方には、「この登場人物はみんな鉄のペニスをもってるね」と云われました。ファンレターにも悲しいのがありました。良ちゃんなんかちっとも魅力的じゃない、名前もファッションもステキじゃないと書いてありました。そう思うのはちっともかまいませんが、それを私に言わねばならないと思う人の気持が私にはわかりません。いちばん嬉しかったのは木原敏江さんの言って下さったことでした。──「ちょっと! 梓さん! あれじゃあんまりじゃない。あんまり滝さんかわいそうじゃない。かってに頭の中でハッピーエンドにつくりかえて読んでるわよ!!」  いろいろなお手紙ももらいます。これまでのところ、七、三でわかって下さるお手紙の方が多いし、「マヨテン」と略したり、「真夜天ごっこ」がはやってる、というお手紙は、私にはよくわかるのでむしろおもしろく読みました。私も「カゼキ」「エルド」というし(註──「風と木の詩」「七つのエルドラド」よ)、昔友達と「巨人の星」ごっこなどしましたもの。書いたものがひとり歩きして、読者の心の中でかってにイメージを結んでいてくれるのは、他の人は知らず私にとってはそれこそが作家の幸せ、なのです。  おどろくほどわかって下さる方も(女の子ばかり)いました。でも、文庫となればそうは期待できないでしょう。ですから、ほんとのところ、これをフランスの恋愛小説、エロばなし、「さぶ」の親玉、創造の神話、芸能界内幕バクロ小説、SFとでもヒロイック・ファンタジイとでも、どう読んで下さったってかまわないわけなのですが、書いた人間の特権として、私はこういうつもりで書いた、というお話をしますと、私は、この小説を、「枯葉の寝床」のような、いわば耽美からのアプローチによっては書きませんでした。また、じっさいには、そんなむずかしい高尚なテーマも考えてなかったのです。  ただ私にとってそのとき切実に知りたかったこと──それは、一人の人間が、どうしたら、|ほんとうに《ヽヽヽヽヽ》孤独ではなくなるか、ということでした。  孤独。──それは、私にとってはたいへんな重大なことばなのです。BFができれば孤独でなくなるか。結婚すれば孤独でなくなるのか。この小説で、滝俊介という人は、他の人間を好きになればなるほど、どんどん孤独になり、そしてどんどん、あいての心が読めなくなってゆきます。今西良という若者も、孤独だから、フラフラと彼についていったのです。かれらはみんな、何とかして他人に、ものすごく、全存在をかけるほど強烈に関心をもってほしかっただけなのです。私の知るかぎり、そのことを私に云った人は、この本の読者では、二人だけです。 「翼あるもの」下巻の少々攻撃的なあとがきからまた少し時間がたったので、いまは、私はたいへんおだやかに、当時の自分を分析することができます。そして、やっぱり、他にどんな意味があるにせよ、やはり私が今西良くんを男の子にしたのはそれなりの意味があると思えます。なぜなら──もし彼が女の子で、歌手になってああいうマネジャーと出会ったとすると──そこには、こういう、ぶつかりあいはおこらないでしょう。その少女が、相当きつい性格であったとしても、その少女は、あっさり滝さんと結婚するか、別の人と結婚するか、さもなければたちまち世話女房タイプに豹変して、うるさがった滝さんにたちまち振られてしまうでしょう。さよう、男と女ではそれが困るのです。人間存在の孤独をつきつめるいとまもなく、女の子は孤独を忘れてしまい、その結果ウルサいかみさんをもらって男はいよいよ孤独になる。いやいや、私の書きたかったのは、そんな、向田邦子さんの世界! じゃあないのですね。それも孤独にはちがいないが、何というか──赤ちょうちんとか、藤田まことさんの(「仕掛人」の)孤独、「男はつらいよ」の孤独ではなく、もっと、あるでしょう、人間というものには──一体どうやったら他の存在にこれ以上ないくらい近づけるのか、という。その双曲線のプロセスを書いてあるという意味では、これはまさしく恋愛小説です。しかしまた、滝さんという人が、良ちゃんを一個の人格として認めることができたら、もう少し、彼にとって、ことはちがう様相を呈していたでしょう。しかし滝さんはついに、あいてを自分の創造物としか思えなかった。それゆえこれは大島さんの云われる創造者の悲劇──あえていうならピグマリオンの伝説でもあります。そしてその他にもたくさんのもの……私がはじめ書くつもりはなかったにもかかわらず、書いてゆくにしたがってその世界にうつりだしたさまざまなことを含めて、最終的に私がいつも書いてしまうのはたった二つ、「彼らは生きた」ということ、そして「このように時は流れ去りました」ということ。時を止めることができれば、愛人との幸福な時で時を止めることができれば、誰も孤独な人などはいないでしょう。しかし時は流れ、時は行き、誰が孤独であろうとそれさえもさいごには過ぎ、消えてゆきます。そして「生きた」というのは、時が流れたということなのです。昔をいまになすよしもがな。結局すべての人間の営為はそこにかえってゆく以上、そのことを書いてある物語は、既にして他のことすべてを内に含んでいるのだ、と云ってもよいでしょう。 「むかし乙女がおりました」 「そういう時代でありましたよ」 「ただそれだけの物語なんだ」  ──私の愛する木原敏江さんのマンガのフレーズのように、私もまた、「ただそれだけのお話」を書きたいのです。と、いうようなことは、この「真夜中の天使」を書いていた二十二、三のころにはまだうまくことばにできなかったのですが。  ともあれこの小説は他の私の小説のように誰がどう読んでもとにもかくにも面白い、という話ではありません。ですからどの人にもおすすめして、買って下さい、読んで下さいとは云いません。しかしもう、昔のように、わからんやつは読むな、とも云いません(そうにこにこと云えるようになった自分というのが実に──たしかに時というものは偉大だと思います)。読んで、そしてお好きなように考えて下さい。ただし、ひとつだけお断りしておきますが、この小説を、現実の芸能界と結びつけたり、モデルがいるんではないかと思われることだけは断固おことわりします。作者の権利だ。そんな上っぺらな読み方は新聞記者だけでたくさん。大体現実の芸能界のどこにあんな美──いやいや。ましてまかりまちがってもたの──いやいやいや。何はともあれ、このごろ恐怖にもジョニーなどという名の歌手の人がいたりしますが、私がこれを書いたのは、いまを去ること七年前なのだ、ということをどうか忘れないで下さいまし。情報やファッションその他古いところをあらさがししたって、この小説で私の云いたかったことはわかりゃしないよ。  ともあれ──  私はたぶんほんとうは、滝俊介さんのように私を見出し、連れ去り──そして人生を注ぎこんでくれる人がいなかったので、滝さんの話を書いたのであるような気がします。だが人間とは、選ぶことによって自らもまた選ばれるのであり、むろんその逆もまた真です。それがわかっていなかった滝さんは、やっぱり子どもだったのかもしれない。自分では結城さんを理想の男のつもりで書いたのに、時がたつにつれて、あの人はただのぼんぼんで、やっぱり滝さんは(わがキャラながら)ええ男やなあ、と思えてくるのですね。  これを書いて七年め、このあいだ私は長崎へ行きました。皆さん、読んだかたはふしぎと云って下さるのが、長崎のシーンが印象にのこる、ということなのです。ごく短い、ほんとに半ページほどのシーンで、しかも白状すると(時効、時効)書いたときには私行ってなかったのだ、長崎へ。一回も! (わはーん)  講釈師、見てきたような嘘をつき、とはこのことだが、「光明るい長崎の町」とか石畳とか書いたところ、行ってみたら、長崎はきょうも雨だった、ではなくてほんとに書いたとおり光明るい長崎だったことに感激しました。セント・レニの街、ご存じですか。矢代まさこさんの。  何だか、ずっと前に書いたその長崎へほんとに行き、誰かさんと石畳の坂を上ったりして、妙に、ああ、これでほんとに私の中で「真夜中の天使」は完結したのだ、と思いました(同じく、「翼あるもの」下、で巽さんが透くんを横浜にドライブにつれてってから、横浜も心の町、なのです)。愛するものよ! (宗方コーチふうに)愛する、愛するものよ、という気分なのです。 「真夜中の天使」とひょっとして「翼あるもの」も読んで、そういうテーマ(JUNEって意味じゃなく)に共感をもって下さった方には、いま連載中の「レダ」がこれにつづく世界ですから読んで下さい。  さいごに、この本を、これを書くために生きてた昔の私と、そして「トーマの心臓」と「風と木の詩」、「摩利と新吾」を愛するすべての人に捧げます。   一九八二年五月二十四日  単行本 昭和五十六年八月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年九月二十五日刊